纒向ロマン 第六の物語

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  「はじめ国家」ロマン 纒向

  第六の物語


 第六の物語は、大和盆地東南部に一地方政権として成立した大和王権が逐次発展してその領域を拡大して行き、遂に北部九州の倭国(邪馬台国)を服属させて列島のほぼ全体を支配するようになったというもので、大和王権はほぼ「記紀」に記載の通り発展したとしています。これは、若井敏明氏が『邪馬台国の滅亡』(吉川弘文館、2010年)で提起されたものです。
 大和盆地東南部に成立した大和王権は、九州から東漸した勢力、すなわち「記紀」記載の「神武東征」によって形成され、その東征の発進地は宮崎の日向ではなく、北部九州の香椎付近の日向であったとしています。神武東征時の大和は宇陀、磯城、鳥見、添、葛城など、村落首長的な者を中心とする纏まりがいくつか存在した状態で、それらを征服して王権を立てたとしており、その年代は二世紀初頭頃が相応しいとしています。その根拠は仲哀の死去は四世紀中頃と考えられることから、一世代を20年として神武東征の年代はそこから二百数十年遡った頃と考えられるということです。
 仲哀の死去年に関しては、「紀」の神功紀46年(246 120=366年)に卓淳を介して百済に使者を遣わし、翌年の367年に百済の使いが新羅の使いとともに来日して朝貢したとき、「先王の所望した国人、今し来朝し、」と述べたと記されているので、仲哀の死亡年は366年とすることができるということです。
 神武の後の大和王権は、「欠史八代」ではなく実在していたとし、その間の天皇の婚姻相手の記事に鑑みて、大和王権が連合して支配した領域は初めのうちは磯城が中心で、春日、十市など奈良盆地の東部に限られていたが、孝元になると奈良盆地から河内へと拡大し、開化になると丹波(丹後を含む)まで拡大したとしています。
 次いで、崇神になると紀伊や尾張は同盟関係となっていたが、さらに四道将軍の派遣、すなわち大彦による角鹿(越)、武淳川別による美濃・尾張、吉備津彦による吉備、丹波道主による丹波の制圧によってそれぞれの地域を本格的に支配下において領域が拡大されたとしています。さらに吉備津彦と武淳川別を遣わして出雲振根を討って出雲も服属させるとともにそれを国譲り神話とすることによって征服王権としての大和王権の正当性を神話的に主張しました。また、次の垂仁時には出雲と丹波の間に位置し、アメノヒボコの子孫が支配する但馬も服属することになりました。かくして、崇神・垂仁の征服事業を経て大和王権の支配地域は、西は出雲・吉備、東は角鹿・美濃・尾張のラインに及んでいたということです。なお、崇神、垂仁、景行の三代の王宮は纒向にあったものと想定しています。
 一方、北部九州の三世紀の倭国は、「魏志倭人伝」に記載のように、邪馬台国の卑弥呼を戴いて連合した小国家連合政権からなる地方政権でしたが、三世紀半ばに魏と交流して卑弥呼が「親魏倭王」に徐正されました。しかし、倭女王卑弥呼は九州南部の狗奴国との戦いの間に死去し、その後一時男王を立てて混乱しましたが、壱与を立てることでその後も継続し、戦いの相手の狗奴国(クマソ)も継続していました。
 そして、大和王権は景行時に九州の征服に乗り出し、九州東北部の豊前を拠点とし、北部九州の中枢部は避けて南部九州のクマソ、すなわち狗奴国を征服しました。その年代は四世紀前葉としています。次いで、四世紀半ばに仲哀と神功が北部九州の筑後山門の邪馬台国の征服に向かい、豊前に至って伊都国王の五十途手が帰順し、博多まで進駐しました。仲哀は、倭国と半島の連絡を断って武器や鉄資源を入手するため、百済に遣使する一方倭国との戦に入りますがその戦いで戦死し、その後神功が指揮をとって香椎から現在の太宰府周辺を経て甘木市附近に侵攻し、山門県(邪馬台国)に入って田油津媛(倭国の女王)を誅殺することで九州の遠征が完了したとしています。こうして邪馬台国そして倭国は滅び、大和王権による列島統一が完了したとしています。それは百済から使者が来た367年と大和王権が朝鮮に出兵して百済・倭連合が侵入した高句麗を討った369年の間のことであるとしています。
 その後、朝鮮出兵を成功裏に終え、九州で生まれた仲哀の遺児(応神)を擁して畿内に凱旋し、押熊王を排除して政権を掌握し、日本の古代史はあたらしい段階に入ったということです。
 この物語は、「記紀」に記述されていることはほぼそのまま史実であるとした物語で、所々史実と認められる事柄とリンクさせて記述したところはあっても考古学的知見と乖離する点が多々あり、この物語の全体が史実に基づいたものであるとは認められません。特に、神武が大和に東征したのは二世紀初頭であるとしていますが、それは弥生後期の時代であり、大和弥生社会は唐古鍵遺跡を中心としてまだまだ安定的に継続発展していた時代であって、新たな政権が誕生したというような変動は認められず、また邪馬台国が山門地域で古墳時代中期の直前にもそれなりの勢力を維持していたとすれば、古墳時代前期の顕著な遺構が存在するはずですがそのようなものは見当たりません。結局、この物語は「記紀」の記事をほぼそのまま史実として物語ったもので、「記紀」が描き出した皇室史をそのまま現実の古代史としたものに過ぎません。逆に、この物語は、「記紀」がどのような構想に基づいて創作・記述されたのかが良く理解できる解説であるとも言えます。