纒向ロマン 第二の物語

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  「はじめ国家」ロマン 纒向

 第二の物語


 第二の物語は、第一の物語とある意味正反対の物語で、纒向は邪馬台国と敵対した狗奴国であるというものであり、その狗奴国が魏に後押しされた邪馬台国連合との戦いの中で各地の王と連合することで戦いに勝利し、初期ヤマト王権の成立に向けて展開していったという物語です。
 狗奴国とは、大きな新しい奴国というほどの意味で、もともと北部九州の伊都国を盟主とする連合を構成する一国であった奴国にその淵源を有しています。奴国は、弥生後期になって伊都国連合のコンビナートとして発展しましたが、楽浪郡が衰退して行くことによって、楽浪郡との交流権能を持つことで有していた伊都国の主導権が消失してしまい、「倭国乱」という状況になってきました。それは、玄界灘沿岸の先進諸国とその後背地の筑後平野や佐賀平野の後進であったが新興の諸国との間での支配権争いであったものと考えられます。そうした中で奴国は中期以来の交流関係に基づいて瀬戸内の吉備に新天地を求めて進出展開し、分国(「魏志倭人伝」で女王の境界の尽きる所として挙げられた奴国)したものと考えられます。この吉備の奴国は、後期後葉になって日本海側の勢力、特に出雲と連携することで王権が大きく展開したと考えられます。その王権が築造した王墓が、全長80mの双方中円墳で、同時期の朝鮮半島(以下、半島と記す)南東部の大型墓と共通する木槨木棺墓を主体部としている楯築墳丘墓であり、連携した出雲には、楯築墳丘墓と同じ特殊器台を樹立した西谷3号墳が築造されています。その後、この拡大した王権は吉備の地で継続して発展することはありませんでした。恐らくは、瀬戸内をさらに東へ展開し、その東端岸の河内に進出したものと考えられます。河内に進出したことは、弥生後期後葉の中河内に大量の吉備系土器を伴って急拡大した東郷中田遺跡群が存在していること及び東郷遺跡で吉備の特殊器台が出土していることで確認されます。このようにして河内に新たに生まれたのが狗奴国であると考えられます。
 この狗奴国はその後直ちに、瀬戸内に対して生駒山系を介して奥まっていて防御的に有利な位置であり、さらに伊勢湾西岸地域を含めた東海地域との交流や、そこから近江を介して北陸との交流に好適な位置である大和盆地の東南部に新たに拠点を移動したものと考えられ、そうした拠点として形成されたのが纒向遺跡であると考えられます。すなわち、狗奴国は河内から大和にわたって展開している国であり、纒向はその狗奴国の新たな拠点です。
 大和の弥生社会は、前期から後期にわたって継続する複数の拠点集落が、その中で最大の拠点集落である唐古鍵集落を頂点とするヒエラルキーを形成した状態で相互に交流して安定した社会を構成していました。ところが、弥生後期末葉になってそれらが一斉に衰退してしまい、取って代わるように纒向の地に一つの巨大な集落が形成されたことが考古学的に確認されています。特に、唐古鍵遺跡では、その終末期に在来の在地土器が大量に埋設された上に河内系土器が散在する遺構が存在しており、そのまま唐古鍵遺跡全体が急速に衰退していますので、この事例が大和弥生社会の衰退と新たな吉備系勢力である狗奴国の登場を端的に示していると思われます。かくして、上記の狗奴国が大和にそれまでの弥生社会とは隔絶して新たに登場したことが容易に理解されると思います。
 狗奴国が新たに形成した王都としての纏向においては、各種祭祀遺構と初期古墳とそれらを作るための資材運搬や排水用と思われ、初瀬川に接続されていた可能性のある大規模な水路遺構が発掘され、現在のところ纒向では主に祭祀と葬送儀礼が行われていたことが確認されます。祭祀としては、水辺の湧水地点で土器や炭化した木材等が投棄された土壙が多く存在することから水と火を用いた祭祀が行われたと考えられています。この土壙がある湧水地点から上流側に遡った地点では、大型の木製集水桝とそれに上流から水を導く導水樋と下流側の排水樋と建屋が発掘され、浄水を用いた祭祀が行われたと考えられます。また、水辺祭祀地点に隣接する高まった位置(大田北微高地)では、2009年度に大型建物群が発掘され、この大型建物群を王(卑弥呼女王)の王宮であるとする説が大勢を占めていますが、全体として祭祀領域にあるため祭祀施設と見た方が妥当であると考えられます。大型建物Dは4間×4間の宮殿として復元されていますが、発掘された柱穴配置の通り4間×2間の南北に細長い四季の日の出をお祀りする祭殿で、その西に位置する3間×2間の棟持柱を有する建物Cは拝殿で、その西の小型の3間×2間の建物Bは建物群に入る低い建屋の門であると考えられます。というのは、建物Bから建物C、Dを大きく取り囲むように柵列が形成されていることに依ります。また、建物Dの南側に隣接してその2間幅建物の中軸線上に大型土壙が形成され、3000個以上の桃核を含む祭祀に用いたと思われる多種の遺物が投棄されていました。このことからも建物Dは東西2間の建物であった可能性が高く、建物Dの西側の古墳時代の溝も神聖な建物Dの跡を避けて形成した可能性すら考えられます。そして、これら大型建物群の東西方向の中軸線は北に5°振って兵主神を祀った穴師山の山頂部を指向しており、そうすると大型建物群における祭祀は後述のように公孫軍残党が渡来した240年頃以降、箸墓古墳築造までの期間であると考えられます。
 狗奴国王の住居(王宮)などの狗奴国における居住領域は、恐らくは現在の纏向遺跡の北東の第二次拠点とされている地点からさらに北側の天理市域に向けて延びる地域の可能性が高いように思われます。というのは、後述のように南郊が箸墓古墳で、北郊が西殿塚古墳であるとすれば、その間の広い地域が王都であり、狗奴国及び初期ヤマト王権の王都としてはこの程度の領域を占めるのは当然であると思われます。
 狗奴国の墓制は、纏向型前方後円墳と呼ばれるものですが、それは基本的に楯築墳丘墓を踏襲するもので、墳丘頂部に埋葬施設を形成し、頂面で葬送儀礼を行う大型の円墳とその頂部に至るための通路を接続したものであると考えられます。ただし、平地に径50mを超える大型でかつ高さの高い円丘を構築するためその周囲を大きく掘り上げて円丘部に積み上げることで円丘部の周りに幅広の周濠が形成された形状となるとともに、高く盛り上げた墳丘にアクセスするための相当の長さの通路が形成され、その結果が後円部の径の半分の長さの前方部を持った纒向型前方後円墳となったものと考えられ、さらにそれが標準型となって平地以外に構築する場合でも同じような形状に形成するようになったものと考えられます。また、纒向型前方後円墳の主体部は、最初の石塚古墳においては、その後のホケノ山古墳の石囲い木槨に近い構造で、楯築墳丘墓におけるような木槨では大型化によって周囲からの土圧に耐えられず、その補強のための木槨の周囲に裏込め石を積み上げた構造であったもをのと想定されます。因みに、その後周囲の石積みを自立して壁面を形成するように積み上げることで木槨を無くした結果、竪穴式石室すなわち石槨となったものと考えられます。
 また、狗奴国を代表する土器は庄内式土器であり、それは薄甕に代表される薄肉の吉備系土器と畿内第V様式土器との融合によって成立したものと考えられ、まさに中河内で新たに創出されました。これは河内の庄内式土器が大和の庄内式土器に比べて美しいという事実によって示されています。纒向遺跡では、第V様式土器を含みながらも庄内式土器が主体となっているとともに、他地域からの外来系土器が大量に含まれています。より詳しくは、土器の総量に対する外来系土器の比率が15%と非常に高い比率を示しており、かつ早い時期におけるその外来系土器の構成比率は、多い順に東海、吉備、北陸・山陰、西部瀬戸内、近江という順であり、外来系土器の中で東海系土器が非常に高い比率で流入しています。その意味するところは、纒向と東海地域とは友好的な交流関係にあり、両者が争った形跡を考古学的に確認することはできないということであり、纒向を邪馬台国とする場合に狗奴国を東海にあったとする見解は成立し難いということです。
 狗奴国の半島及びその北部の帯方郡・楽浪郡との交流はどのようなものであったのでしょうか。後漢隆盛時の楽浪郡主導の半島における交流経路は、主として昌原の茶戸里及び慶山の林堂洞を経るものでありましたが、楽浪郡が衰退して韓が強勢になると、金海の良洞里が取って代わり、蔚山の下岱も登場します。楯築墳丘墓の主体部は、良洞里162号墳と共通点が多いので、両者の間の強い交流関係が想定されます。また、当時の吉備と出雲の繋がりから、良洞里・出雲・吉備という交流ルートが考えられます。
 その後、狗奴国が中河内で産声を上げ、大和盆地に進出して纒向に拠点を形成しつつあったころ、遼東から半島北部にわたる領域では、189年に遼東太守の公孫度が近隣討伐を行い、楽浪郡を再興し、山東半島に侵入して東莱郡を攻略して営州刺史を置くなど、後漢の後継として建国しつつある魏に対して自立の意欲を示しており、さらに公孫康による204年の帯方郡の設置により韓に流出していた中国人を再び郡に呼び戻し、韓・倭が帯方郡に帰すことになるという変化がありました。恐らくはこの頃から公孫氏と呉の独自の交流が始まったものと考えられます。そのような状況下で半島南東部では、良洞里や下岱は継続しますが、新たに釜山の老圃洞及び浦項の玉城里が登場し、これらが公孫氏の帯方郡との主たる交流経路として形成されたものと考えられ、後漢の楽浪郡と交流した時代とは二段階にわたって交流経路が大きく変化したことは明らかです。纒向に拠点を設置した狗奴国は、吉備奴国時代の交流経路を継承して半島との交流を行っていたものと考えられ、公孫氏が帯方郡を設置した後は新たな交流経路を活用してより活発に交流が行われたものと考えられます。すなわち、公孫氏の帯方郡と韓の新たな交流経路を介して交流していた倭の勢力は、北部九州の伊都国や邪馬台国ではなく、畿内の勢力、すなわち狗奴国であったことは明らかです。というのは、呉系統の鏡である画文帯神獣鏡の分布が、それ以前の漢鏡が北部九州を中心に分布していたのと異なって、畿内を中心に分布するようになったからであり、画文帯神獣鏡は上記及び次に記すような公孫氏と呉の交流状況のもとで呉から公孫氏を介して主として狗奴国連合の勢力圏である畿内に流入されたものと考えられます。畿内と韓の交流経路を中継した日本海側の拠点の一つとしては、例えば吉備と交流のあった出雲で、庄内式土器が出土している南講武草田遺跡の集団が考えられます。
 この当時の公孫氏と魏と呉の状況を見てみますと、220年に文帝が魏を建国しました。228年に公孫淵が公孫康から位を奪うと、232年には明帝と公孫淵の意図の行き違いから公孫氏と魏が敵対的になる一方、呉が海路から公孫氏に使者を派遣し、相互の交流が活発になり、それに対応して魏は懐柔策を講じることになります。公孫淵は呉と魏に対して優柔不断に両股をかけた状態で自立の機会を伺っていました。
 その後、公孫氏と魏の関係は風雲急を告げることになりました。すなわち、234年に五丈原で諸葛亮が死すと、魏に余力が生じて公孫討伐が予定行動となり、237年に公孫淵を呼び出すべく毌丘倹を派遣しましたが、公孫淵はこれを撃退して、ここに至って燕王を称し、独自の年号を定めて独立を宣言し、鮮卑と同盟を結び、呉に援軍を要請しました。そこで、魏は翌年司馬懿を討伐に向かわせ、襄平を落として公孫淵を滅ぼし、また別軍が海路から楽浪・帯方郡を攻略し、楽浪・帯方郡を魏の支配下に置きました。楽浪・帯方郡を支配下に置いたということは郡に連携していた配下の各県城に対しても順次軍を進めて制圧したものと考えられます。さらに、魏の新たな帯方太守の下で郡の交流相手であった韓の諸国に対しても軍を伴って使者を派遣し、郡への従属と忠誠を要求したものと考えられます。
 このような司馬懿の本隊及び別軍による襄平及び楽浪・帯方郡の制圧に際して、公孫軍の一部がそれまでの交流関係を頼って韓に逃れ、さらに倭に到達して狗奴国に逗留した可能性が考えられます。公孫軍の一部が交流関係に頼って韓に逃れることができた可能性は、後の245年に馬韓が魏に背き、その戦いの中で帯方太守が戦死してしまうというような状況が生じたことから容易に想像がつきます。また、公孫軍の残党が狗奴国に逗留し、邪馬台国連合との戦いに参加し、初期ヤマト王権の発祥に寄与した可能性は、椿井大塚山古墳出土の中国式の小札革綴兜や東大寺山古墳出土の中平年銘鉄刀のほか、纒向に兵主神社が存在することにその根拠が求められます。というのは、兵主神は、山東の斉の八神の一つで、鍛冶や製鉄の神で、戦いの神であり、漢の高祖(劉邦)が天下統一に当たって祀った戦う神であり、また兵主神社の上社が嘗て穴師山の山頂部に存在していたので、そのような戦いの神である兵主神が穴師山の山頂部に祀られていたことはほぼ確実であり、しかも2009年に纒向遺跡で発掘された大型建物群の中軸線がその穴師山の山頂部を指向していることから、纒向に拠点を設置した狗奴国がこのような戦いの神である兵主神を祀ったことは確実であると思われます。そうして、この時代に纒向に兵主神をもたらしたのは誰かといえば公孫軍の残党であるとしか考えられません。なお、現在の兵主神社の祭神は、兵主神ではありませんが、神社の祭神はその時々の権力に追従しないと、具体的には記紀神話にひきつけた神を祀らないと、神社として生き残ることができないという現実に合わせた結果であって、兵主神社に関してはその特異な神社名にこそ本来の祭神が示されていると考えるのが至当であり、また以後のいずれの時代においても元々祭神に合っていた神社名をわざわざ兵主に変更すべき事由は全く見当たらず、恐らくは兵主神の偉大な神威が強く伝承されていたからこそ神社名が継承されたものであると思われます。
 狗奴国がそのような戦いの神である兵主神を祀ったのは、正に魏の後押しを受けた邪馬台国との戦いに勝利するためであったと考えられ、逆に魏が邪馬台国の狗奴国との戦いに対して塞曹えん史の張政を派遣し、難升米に黄憧を拝仮してまで後押しする必要があったのは、公孫軍の残党が狗奴国に加担しているとの戦況報告を受けたことにより、万一にも狗奴国が戦いに勝利して倭と呉が連携する事態の発生を恐れたからであると考えられます。
 では、その邪馬台国はどこかということになりますが、これは当然のことながら北部九州ということになります。後漢光武帝によって再興された楽浪郡が隆盛であった弥生中期の頃は、その楽浪郡との交流を一手に掌握した伊都(委奴)国を中核として北部九州、特に玄界灘沿岸の諸国が連合していましたが、その後に後漢がその弱体化に応じて遼東郡以東に対する関心が弱くなり、楽浪郡が衰退するのに伴って、伊都国連合は急速に衰退化すると共に、その後背地の筑後平野の諸国が勢力を持つようになり、北部九州の諸国が互いに主導権争いを繰り返していました。そうした中で、狗奴国が河内で産声を上げ、大和東南部に拠点を構築した頃に、危機感を持った諸国が筑後平野の新興の邪馬台国の女王で、鬼道をよくする卑弥呼を共立することで互いに連合して邪馬台国連合を形成し、狗奴国と対抗することになったものと思われます。
 そうした中で、先に記したように、238年に魏が公孫氏を滅ぼし、楽浪・帯方郡を支配下に入れ、さらに魏に対する従属と忠誠を要求するため公孫氏と交流のあった諸韓国にも軍を伴った使者を派遣したものと考えられますが、さらに倭において狗奴国と対抗している邪馬台国にも軍を伴った使者を派遣して貢献することを求めた可能性が十分にあると考えられます。たとえそうでないとしても狗奴国と対抗する上で魏の後押しを得ることは望ましく、心強いことであるため、諸韓国から帯方郡が魏に帰したことを聞いて直ちに使者を派遣することにしたものと考えられます。
 かくして、239年に卑弥呼が倭王として使者を郡に派遣し、皇帝に朝献を求め、その年の12月に「親魏倭王」に制招されています。この朝献が、魏の主導の下で急になされたことは、貢献品の貧弱さと下賜品の豊富さに表れています。翌年の240年に郡太守が倭に使者として梯儁を遣わして倭王卑弥呼に詔書印綬を拝仮しました。この時に、松本清張氏が述べたように、魏は、本国における刺史の如き働きをするものとして「大卒」を伊都国に置いて倭国の政情を監視するようにした可能性が高いものと考えられます。次いで、3年後の243年に再び遣使・貢献して使者に率善中郎将の印綬が付与されます。そのような中、245年に馬韓が魏に背き、その戦いの中で太守が戦死してしまうという事件が発生し、魏と倭の交流経路が安定したものでないことが露呈します。そこで魏は同年郡に付して難升米に黄憧を仮授して交流の安全を担保すると同時に自ら安全を図ることを求めたものと考えられます。そして、2年後の247年に新太守の王頎が帯方郡に到ると、倭は直ちに使いを送って狗奴国との戦いの戦況を報告します。恐らくは公孫軍の残党が参加した狗奴国軍が強力で、極めて厳しい状況にあったものと思われます。そこで、王頎は、軍事的な顧問として塞曹えん史の張政を派遣し、詔書・黄憧を齎して難升米に拝仮するとともに檄を告諭しましたが、そこで卑弥呼が死んでしまいました。張政の圧力を受けた周囲から責任追及を受けて自害したか、殺害された可能性があり、代わって戦える王として恐らく難升米と思われる男王を立てることになったと思われます。しかし、男王を立てたところ連合していた諸国がその男王に服さず、再び相誅殺し合うという状態に陥ってしまいました。そうなると、仕方なく十三歳になる卑弥呼の宗女で、鬼道をよくする台与を立てて王となすことになり、その結果邪馬台国連合自体は安定しました。張政はそれを見届けると台与を告諭して帰還しましたが、恐らくは邪馬台国連合からなる倭国を見限ったものと思われ、その状況をつぶさに報告するために早々に帰還したものと考えられます。
 魏の後押しを失った邪馬台国連合が公孫軍の残党を軍事顧問とする狗奴国に戦いに勝利することはほぼ不可能と思われ、徐々に衰退していったと考えられます。265年に司馬炎(武帝)が皇帝となって晋朝を立てると、その翌年の266年に倭女王台与が使いを派遣したことになっていますが、これは司馬氏の東方政策の失敗を隠蔽するためのでっち上げである可能性もあり、たとえ事実であったとしても、以降邪馬台国と晋朝の交流があって台与が晋朝により倭国王に制招されたという記事も見当たらず、晋は最早倭と呉の連携は恐れるに足らずかつ現実性もないことを喝破して邪馬台国連合を見放し、邪馬台国は狗奴国連合との戦いに敗れて滅亡したものと考えられます。
 狗奴国が邪馬台国との戦いに勝利したことは、福岡平野と筑後平野をつなぐ要衝の宝満川流域に津古生掛古墳が築造され、また吉野ケ里遺跡に東海の前方後方墳が築造され、その後纒向型前方後円墳が続々と築造されていることから考古学的に確認されます。
 邪馬台国と魏が連携したのは239年以降で、戦況が良くないとして軍事的に後押ししたのは247年以降ですが、それに対して狗奴国は元々吉備・河内を基盤とするとともに当初から東海と連携しており、238年に公孫軍の残党を受け入れることで軍事的に強化されるとともに、邪馬台国と魏の連携に対抗して東海を介して近江や北陸と連携し、さらに吉備を介して山陰との連携を進め、九州を除くほぼ倭全体が連携した結果、初期ヤマト王権の基盤が形成されたものと考えられます。
 こうして各地の王と連携して邪馬台国連合との戦いに勝利した狗奴国王が初期ヤマト王権の初代王となったのであり、その王が死んだとき、連携の象徴として、以前の纏向型前方後円墳に比して格段に大型で、前方部が発達した箸墓古墳を築造してその偉大な功績を称えたものと考えられます。前方部が撥型に開きつつ大きく発達したのは、後円部頂での葬送儀礼によって初代王の首長霊を引き継いだ二代目王が高く立ち上がった前方部端に立ち、その際に連携した各国の王又は代表を両側に従えて新王の誕生を宣言することで、その王権の正当性と権威を広く知らしめるという機能を果たすためであると考えられます。また、箸墓古墳の中軸線は兵主神を祀った穴師山山頂を指向しており、勝利をもたらした兵主神の神威が背後から加護していることを観念させたものと思われます。
 二代目王は、魏晋朝が後押しした邪馬台国連合と戦った経緯から、中国の王朝に対して自立した王権の樹立を目指し、そのために王者(皇帝)にのみ許される特権的な祭祀である郊祀を行った可能性があります。それは、公孫度が初平元年(190年)に天地を郊祀して自立の意を示したという知見に基づいた公孫軍の残党の提案によるものと考えられます。郊祀とは、天を国都の南の郊外で祀り、地は北の郊外で祀るのが礼とされていたことからそのように呼ばれたもので、南郊壇は円形の円丘、北郊壇は正方形の方丘とされ、南郊壇で皇皇天帝を祀り、北郊壇で崑崙地祇を祀り、天帝に対して臣下として統治を行うことを告げるものです。具体的には、郊祀を行った南郊壇は箸墓古墳の最上段の高さ4.5m、上径27m、下径45mの円丘壇で、北郊壇は西殿塚古墳の前方部の高さ2.2m、一辺22mの方形壇であると考えています。というのは、これらの箸墓古墳の頂部の円丘壇及び西殿塚古墳の前方部の方形壇の近くでのみ特殊器台と板石が出土しており、これらの壇で共にその構築に板石が用いられるとともに、特殊器台を用いた祭祀が行われたことが考古学的に確認することができるからです。因みに、箸墓古墳の最上段の円丘壇とそれより下部の三段築成の部分とは明らかに様相が異なり、基壇プラス三段築成の墳丘の頂面上に後に円丘壇が構築されたものと考えられ、西殿塚古墳はその前方部と後円部との接続がスムーズでなく、後に後円部が方形壇に接続するように構築されて郊祀を主宰した祭祀官の古墳とされた可能性が考えられます。
 このようにして確立した初期ヤマト王権の葬送儀礼においては、上記のように大型の前方後円墳を築造してその墳頂部に形成した石槨内に首長の遺体を密閉することで首長霊を封止しますが、その際に道教の教えに基づいて棺の周囲に8寸以上の大型鏡を配置することによって遺体に対する癖邪が図られます。その大型鏡として製作されたのが三角縁神獣鏡であります。この三角縁神獣鏡が製作されるに至った経緯について検討してゆきたいと思います。呉の作鏡集団が公孫氏によって帯方郡に招聘され、画文帯神獣鏡を作って呪具として倭の主として狗奴国にもたらしていたものが、公孫氏の滅亡に合わせて公孫軍の残党とともに倭に渡来し、魏の卑弥呼に対する大量の銅鏡の下賜に対抗して、8寸(略20cm)以上の大型の神獣鏡の作鏡を試み、遂に作鏡に成功したのが三角縁神獣鏡です。三角縁というのは、外周部にひずみやクラックを生じることなく大型鏡を作鏡するための技術的革新であって、出雲の神原神社古墳の景初三年銘三角縁神獣鏡は周縁部に鋳鏡時に湯引けにより生じたと考えられるクラックが存在し、技術的革新が完成する一歩手前の鏡であったと考えられます。渡来した作鏡工人が作製した鏡は質の高い「舶載鏡」とされていたもので、その後渡来工人が死んだ後倭人工人が作鏡したものが「傍製鏡」と呼ばれるもので、何れも倭国内で作鏡されたものであると思われます。渡来工人はその技術をすべて倭人に伝えると自らの存在価値が低下するため、十分に伝達しなかったため、同じく国内作製であるにも拘わらず品質の差が生じてしまったと思われます。
 また、公孫軍の残党を率いた武将が死んだとき、王都の南方の外山にその中軸線を王都のある北に向けて桜井茶臼山古墳が築造されたものと考えられます。公孫軍残党は、その軍事的功績が認められつつもやはり王権を担う中枢部とは一線を画されて王都から外れた位置に葬られたものと考えられます。また、茶臼山古墳においては、その埋葬施設は板石を積んで側壁を垂直に立ち上げ、巨大な天井石を用いて石室に準じるような石槨を構成し、その埋葬施設の上部を取り囲むように柱列を立設した構造とされており、明らかにそれ以前の他の古墳と様相を異にしています。この茶臼山古墳の南西に中軸線を東に向けて築造されたメスリ山古墳は公孫軍残党二世の武将の墓と考えられます。墳頂には柱列の代わりに超大型の円筒埴輪が立て並べられており、これが後に古墳上に立て並べられる円筒埴輪の始原であると考えられます。
 その後の公孫軍残党勢力は初期ヤマト王権の確立に伴ってその大部分が王権内に取り込まれて解体され、一部は兵主部として残ったが、その兵主部も河童伝承に貶められて差別視のもとで解体していったものと考えられます。