纒向ロマン 第一の物語

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  「はじめ国家」ロマン 纒向

  第一の物語


 第一の最も一般的な物語、すなわち一般的に広く受け入れられている物語は、中国史書『三国志』における「魏志」中の東夷伝の倭人条(以下、「魏志倭人伝」)に記載されている邪馬台国(「ヤマト国」と読むのが趨勢となっています)は大和にあって、その女王卑弥呼が統率する諸国連合を邪馬台国連合と呼び、その邪馬台国の王都は纏向であるとするものであり、例えば考古学者の白石太一郎氏などが提唱されている見解です。
 ところで、邪馬台国というのは、「魏志倭人伝」とそれに基づいて記述された中国文献の中に記述されているだけものであり、それ以外の資料が存在している訳ではありません。「魏志倭人伝」は、魏の軍事的・地政学的な識見のある使い(張政)が実際に伊都国までか邪馬台国までかは別にしても倭の地に来て実見した見聞録としての面がありますが、実際に見聞した事項と単に伝聞した事項が混在しており、さらに著述者である陳寿が魏使の報告を下敷きにしたとしても記述の構想を立て情報の取捨選択及び補足を行ったことは明らかであるため、その際に陳寿の立場からどういう意図の元で倭人伝を書いたのかということを検討しないと、記述内容が事実であるか否か明らかではないという面があります。
 「魏志倭人伝」によれば、邪馬台国連合の女王卑弥呼は、司馬懿によって公孫氏の帯方郡が滅ぼされると、間髪を入れずに魏の帯方郡に使いを送り、魏から倭国の女王として認定されて「親魏倭王」の金印が仮授されたということです。しかし、「魏志」が書かれたのは西晋の時代で、陳寿は歴史を記述する者として史実を正しく記述する必要性とともに、晋朝を立てた司馬氏を立てるべく司馬氏の外交上の功績を顕揚する必要があったと思われます。司馬懿の最大の政敵となった曹爽の父曹真が文帝による魏建国(220年)後229年に西方の大国である大月氏国(インド・クシャーナ朝)の王、波調(パースデーバ)に働きかけて魏に朝貢させ、親魏大月氏王に封建したのに対して、司馬懿が238年に公孫氏を滅ぼすとその直後に倭の中の邪馬台国に働きかけ、魏への朝貢の使者を送らせて親魏倭王と為すに至ったのであり、そこで司馬懿の功績を大きくするために邪馬台国を西方の大月氏国に対抗して東方の大国にする必要性があり、その結果邪馬台国に統属する倭国を遠くかつ大きな国として記述することになったということが考えられます。なお、親魏○王はこの2件しか存在せず、そもそも親□王自体がほかに、晋代の親晋王が1件あるだけです。
 かくして、魏が女王卑弥呼を親魏倭王としたことは事実として認められますが、それを過大評価することなく、この物語ではまずは纒向遺跡の成立過程と絡めて邪馬台国の実体を確認することが必要であると思われます。
 大和平野の東南部に位置する纒向の地には、それ以前の弥生時代には前期から後期にわたってそれらしい集落は存在していず、邪馬台国の時代に並行する庄内式土器の時代(以下、庄内期という)になって突然弥生集落とは隔絶して大きな集落が成立したということです。大和の弥生時代においては、前期から後期にわたって長期間継続する拠点集落は、纒向の西方の田原本に最大規模で大和の弥生集落の頂点に位置する唐古鍵遺跡が、纒向の近くではその南に芝遺跡が、桜井市西南部から橿原市にわたる位置に大福坪井遺跡が、北方には天理市の平等坊岩室遺跡がそれぞれ存在していましたが、これらの弥生集落は、弥生後期から庄内期にかけて完全に消滅したわけではないにしても著しく衰退し、それに入れ替わるように纏向遺跡が登場してきたのです。
 その経緯に関して、この物語では3世紀初頭に大和の地に「魏志倭人伝」で邪馬台国(ヤマト国)と呼ばれた国の女王卑弥呼が盟主となった小国連合が成立し、それに伴って戦争から政治的な纏まりに移行し、その結果弥生集落を画していた環濠が無くなり、それと共に王都が唐古鍵から纒向へ移動されたとしています。さらに、鉄素材や鏡などを入手するには、それまで入手ルートを支配していた北部九州と衝突せざるを得ないことから、3世紀前半に邪馬台国は瀬戸内勢力と連合して入手ルートの支配権をめぐって北部九州との間の戦いに臨んだものと想定しています。考古学的には戦いの存在を示す証拠は見当たりませんが、この戦いを倭国大乱としています。なお、AD180年頃(桓・霊帝の頃)に倭国大乱があり、卑弥呼が共立されて邪馬台国連合が成立したという説に関しては、卑弥呼が250年頃死んだとするとその治世が長すぎるとして否定しています。そして、この戦いの中で邪馬台国の女王卑弥呼を倭の女王として共立して互いに連合することで合意し、その結果支配権が北部九州から瀬戸内・近畿に移るとともに少なくとも対馬・壱岐・北部九州から畿内を領域とする広域連合の邪馬台国連合又は倭国連合が成立したものとされています。
 成立した纒向遺跡には、水辺で水と火を用いた祭祀が行われた土壙群や、大型の木製集水桝と導水樋を備えて浄水を用いた祭祀を行ったと思われる導水遺構や、両岸に木製矢板を打ち込んだ運河とも考えられる大型の水路施設が作られており、また王の葬送儀礼を行う場として石塚古墳、ホケノ山古墳、勝山古墳など、90m級の大きさで前方部の長さが後円部の直径の略半分の纒向型前方後円墳が、それまでの大和の弥生社会ではその萌芽すら無かった墓制が突然創出され、またそれまでの弥生後期の土器とは著しく異なる薄肉の庄内式土器が遺跡周辺に限定される形で登場するとともに、全国各地との交流が活発に行われたことが想定される各地域の土器が多量に出土し、また半島との交流を示す韓式土器や、大陸との交流を示すベニバナの花粉なども出土しており、さらに2009年度の辻地区の発掘調査によって東西に中軸線を持つ大型建物群が発掘され、その中の最大の建物Dは4間×4間に再現され(実際に検出された柱穴は4間×2間で隣接して後世の溝があり、その溝によって削平されたと見ていますが、溝は建物跡を避けて掘られて元々2間であったとする見方も考えられます)、卑弥呼の宮殿とみなす見解も提起されています。以上のことから、纒向は邪馬台国連合の王都として相応しい様相を呈していると考えられています。
 このように畿内・瀬戸内勢力が勝利して広域の邪馬台国連合が成立し、支配権が北部九州から畿内に移った考古学的な根拠として、漢鏡の出土分布が、岡村秀典氏による漢鏡編年における2世紀の漢鏡6期までは北部九州が主体であったのに対して、3世紀前半の漢鏡7期第2段階の画文帯神獣鏡の出土分布は畿内中心に変化していることが挙げられます。なお、北部九州の邪馬台国勢力が畿内に進出したという東遷説に対しては庄内期に九州の土器が動いていないことから成立しがたい説であるとしています。
 この邪馬台国連合は、倭の少なくとも北部九州から畿内にわたる範囲を領域とする一方(さらに東海から関東の一部までを含む範囲とする見解もあります)、「魏志倭人伝」の記載から、南を東に読み替えて、邪馬台国の東に卑弥呼に従わない男王の国である狗奴国があり、「素より和せず」とあるように互いに敵対し合っている状況にあったとされており、邪馬台国を大和とする見解では、邪馬台国連合が円形墓の系譜の前方後円墳を採用しているのに対して方形墓の系譜の前方後方墳を採用している東海を狗奴国とするのが一般的です。しかし、纒向遺跡には早い時期から東海系土器が流入しており、長期間にわたって互いに敵対状態にあって争っていたとは認めがたいことになります。そこで、相互の交流はずっとあったが、卑弥呼の晩年に至って邪馬台国連合が東に領域を拡大するに当たって支配権をめぐって互いに戦うことになったものと解釈されます。「魏志倭人伝」によると狗奴国との争いの中で、正始8(247)年に卑弥呼が死んだ後、男王が立つと相争う状態となったため、卑弥呼の宗女台与が立ったことになっています。狗奴国との戦いの結果については、「魏志倭人伝」に記載はありませんが、邪馬台国連合が勝利して倭国のほぼ全領域にわたる初期ヤマト王権が成立したと解釈されています。
 その解釈の根拠は、考古学的な事実として纒向遺跡の纒向型前方後円墳から箸墓古墳を経て倭国のほぼ全域に展開している古墳時代前期の前方後円墳にスムーズに移行しているということが挙げられています。
 少し詳しく説明すると、まず、台与が卑弥呼の墓として箸墓を作ったとしています。箸墓の築造年代は、3世紀後葉とする説が有力な中、近年科学的とされるC14年代測定法による年代測定の結果として250年過ぎ(3世紀中葉)に築造されたとする説が出てきており、その説に沿えば卑弥呼の墓と見なして良いことになります。邪馬台国が大和にあり、箸墓古墳が3世紀中葉に築造されたということであれば、当然箸墓は卑弥呼の墓であるということになります。すなわち、台与の時代に新しく成立した広域の政治連合を卑弥呼がその死後も守護してくれることを願って箸墓が作られ、その広域の政治連合の更なる維持発展のために台与の企画で前方後円墳を中核とする古墳秩序システムが創出されたとしています。
 そして、大和東南部における大型古墳の編年は、箸墓古墳-西殿塚古墳-行燈山古墳(崇神陵)-渋谷向山古墳(景行陵)と考えられており、箸墓古墳を卑弥呼、西殿塚古墳を台与の墓とし、行燈山古墳を「記紀」において「ハツクニシラスミコト」とされている崇神陵、行燈山古墳を景行陵と見て間違いないものと見做して大型古墳の系譜からも邪馬台国連合から初期ヤマト王権につながって行ったと解釈できるとしています。
 以上のように、3世紀前半には纒向型前方後円墳を墓制として持つ畿内を中心とする邪馬台国連合と東の前方後方墳を墓制として持つ狗奴国連合とが対抗し、卑弥呼の晩年に両者が戦い、卑弥呼の死後3世紀後半台与のもとで両者が合体して新しい政治連合が形成されると共にそのモニュメントとして卑弥呼の墓、箸墓古墳が築造されました。そして、箸墓古墳を端緒として前方後円墳が成立すると、なぜそうなるのかという根拠の理論的説明には種々の議論はありますが、結果的に事実として前方後円墳を築造して行われる葬送儀礼によって王権が継承されるというシステムと身分秩序に応じた古墳を作るという前方後円墳体制が生み出され、それが倭国全体に展開され受け入れられたことによってヤマトを中核として相互に緩やかに連携する初期ヤマト王権が成立したと解釈されています。かくして、纒向が初期ヤマト王権の発祥地であることは疑いないこととなります。
 以上の第一の物語は、3世紀初めに唐古鍵集落の人々が纒向に移動して来て邪馬台国連合の王都とするとともに、倭を代表するような大連合を作ったというものですが、弥生後期になっても古い弥生社会システムが安定して残っていた大和において、唐突にそのような大変革を生じさせた理由と経緯、及び唐古鍵の人々がなぜそのような変革の担い手になり得たのかということが、現在のところ充分に納得できるようにつまびらかに語られていないというのが実情です。
 また、箸墓を卑弥呼の墓であるとしていますが、その場合箸墓よりも先行する石塚古墳やホケノ山古墳や勝山古墳などの纒向型前方後円墳はどのような人物の墓なのかが問われます。卑弥呼が、3世紀初めに纒向に移動し、3世紀半ばに死んで箸墓が作られたとすると、纒向においてこれらの古墳が作られる期間が短すぎるように思われ、卑弥呼の王族の墓という説明にも無理があるように思われます。
 また、最初に作られた石塚古墳は吉備の強い影響を受けて作られたものと考えられますが、その経緯が充分に説明されず、よく分かりません。また、庄内式土器がどのように誕生したのかについても同様です。