纒向ロマン 第一の二の物語

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  「はじめ国家」ロマン 纒向

  第一の二の物語


 第一の二の物語は、第一の物語とほぼ同様に、倭国の女王である卑弥呼が居る所は大和の邪馬台国(ヤマト国)であり、倭国の都は邪馬台国(ヤマト国)に新たに作られた纏向であるとするものであり、纒向学研究センター所長の寺沢薫氏が提唱されている見解です。
 邪馬台国(ヤマト国)自体に関しては、大和弥生社会においてすでに、旧山辺郡、磯城郡、十市郡、及び高市郡の一部を範囲として唐古鍵の集落を王都とする邪馬台国が存在していたとしています。
 卑弥呼は、2世紀の「イト倭国」の後を引き継いで3世紀初めに新たに誕生した「新生倭国」の初代の女王であり、この「新生倭国」は、地域国家の連合・参画の上に立った「王国」段階の新しい政体であって、それは「ヤマト王権」そのものであって、「邪馬台国連合」が発展して「ヤマト王権」が成立したのではないということを強調しています。すなわち、「新生倭国」は、旧倭国である北部九州のイト国中心の倭国(イト倭国)と、キビを中心としてイズモ・タニハ・サヌキ・ハリマ・アワからなる国連合と、ヤマト国を含む畿内の国連合と、アフミ国と、イセ国の談合によって形成されたものであり、それは畿内のヤマト国が中核となったものではないとしています。ヤマト国に元々大きな政治権力があったのではなく、「新生倭国」の母体はヤマトには無かったとしています。
 この「新生倭国」成立の経緯については、2世紀には広形銅鉾分布圏をその領域とする「イト倭国」が倭を代表する国となり、倭の他の地域の国々はこの「イト倭国」を通して後漢の楽浪郡や朝鮮半島からの各種文物を入手するためにその支配権を受け入れていましたが、2世紀後半後漢が衰退すると「イト倭国」の支配権も弱体化し、190年~220年頃には「イト倭国」と他の地域の国々の間で相争う倭国乱の状態となるとともに、キビ、タニハ、コシ、近畿、濃尾、シナノ、トホツアフミ、スルガなど、それぞれ特徴ある独自の王墓を持つ独自の地域国家が成立したものと考えられています。
 そうした中で204年に公孫氏によって帯方郡が設置されたとき、上記のように相争っていた国々が談合して、女王として卑弥呼を共立するすることで「新生倭国」を成立することで合意したものとしています。その前の2世紀末には、500m×600mの広さの大規模な環濠集落で邪馬台国の王都であった唐古鍵集落が、その環濠を埋められて急激に衰退しており、そうした中で邪馬台国の領域内の纒向の地に、「新生倭国」の王都が新たに突然形成されたものとしています。かくして、そこに卑弥呼がいたであろう纒向遺跡の成立は3世紀の初めということになります。
 纒向遺跡の特徴は、鋤が95%で、農具がなく、運河状水路が作られ、各地の土器がセット(マツリ用、日常用、貯蔵・運搬用)関係で出土し、この地で前方後円墳が成立し、鏡の出土量が多く、さらに布留式土器の時代になると土器が全国各地に運ばれるようになるというところにあり、「新生倭国」の王がいる都市としての特徴が認められるとしています。なお、日本的な都市というのは、王権の祭祀や政治機関の場であることを基軸に経済的観点も考慮した上で多少大まかに規定される必要があるとし、そうすると纒向は都市的要素がほぼ出揃っているとしています。
 また、この「新生倭国」即ち大和王権の中枢の人たちが何処から来たかは、成立した前方後円墳の要素から分かるとし、それはイト倭国と、キビ(キビ、ハリマ、サヌキ、アワ)と、イズモであるとしています。前方後円墳は、王の霊の継承儀礼(秘儀である)を行う場所であるとし、霊を継承するという考え方は、弥生時代の終わりに平原遺跡で埋葬施設の上に小屋を建てていることから伺われるのが最初で、王霊の継承という要素はイト倭国、楯築墳丘墓で墳頂に立石があることから伺われる円形墓上で葬送儀礼を行うという要素はキビ、西谷3号墳にみられるように墳丘表面を石で覆うという葺石の要素はイズモであるとしています。
 こうして成立した「新生倭国」の女王卑弥呼は、公孫氏と冊封関係を結んだものと想定しています。また、その後司馬懿によって公孫氏の帯方郡が滅ぼされると、間髪を入れずに「魏志倭人伝」に記載のように魏の帯方郡に使いを送り、魏から倭国の女王として認定され、「親魏倭王」に徐正されて金印が仮授されたとしています。
 また、魏志倭人伝によれば、邪馬台国の東には、卑弥呼に従わない男王の国である狗奴国があり、互いに攻撃し合っている状況にあったということですが、その狗奴国は、邪馬台国が大和であることから東海とされ、その墓制である前方後方墳が広く展開している東国の広い地域の国々が狗奴国連合を形成していたものと考えられています。「新生倭国」=ヤマト王権は、この狗奴国連合を凌駕し、速やかに倭国のほぼ全体に展開し、前方後円墳体制が確立したとしています。
 以上の物語では、倭国乱の状態から北部九州から近畿までの広い範囲の国々が平和裏に「談合」して「新生倭国」を成立させたとしていますが、そもそも話し合うべく互いに顔を突き合わせるだけでも長い日にちを要して困難であると思われる状況で、疑心暗鬼に陥りやすい互いに敵対し合っている複数の勢力の談合が本当にあり得るのか、どのような経緯と手続きで行われたのか現実味のある説明がないと良く分からないということになります。
 また、そのような談合を提起して主導したのはどの勢力なのか、常識的には地理的に中間に位置し、新興で勢いがあり、主導力があった可能性が高いと認められるキビと考えるのが妥当と考えられ、それを示唆されていますが、根拠や経緯を明確に説明する必要があると思われ、そうすることで上の疑問も解消される可能性があります。
 なお、この物語を、例えば北部九州や吉備の勢力が武力で大和に侵攻して来て「新生倭国」を作り上げたという物語に引き寄せて解釈されるのを回避するため、そうではないということを明確にする意図から「談合」を持ち出したということも考えられますが、それでは単純な「武力侵攻」か「談合」かの二者択一の論理に安易に流れたと思われます。