纒向ロマン 第四の物語

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  「はじめ国家」ロマン 纒向

  第四の物語


 第四の物語は、邪馬台国は吉備で、その邪馬台国は大和の狗奴国によって滅ぼされ、狗奴国が畿内・西日本を支配下においたというものです。纒向が狗奴国で、その狗奴国が邪馬台国を破ったという点では第二の物語と同じですが、邪馬台国が北部九州でなく、吉備であるとする点で異なります。この物語は、吉井正一氏が『ヤマトの誕生』(文芸社、2004年)で提起されたものです。
 二世紀の初めに、九州、四国、本州西部を統合する国家、ヤマト国=邪馬台国が吉備に誕生し、男王が何代か続きました。邪馬台国が吉備である理由は、魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事を「直線読み」し、その里数と日数記事から邪馬台国は北部九州から離れたところにありかつ邪馬台国は「ヤマト国」であるから本州島にありかつ北九州-邪馬台国-狗奴国という順序で存在しており、また九州、四国、本州西部を含む西日本が政治的に統合されたのが邪馬台国であるということから、祭祀や墓制など、精神的・文化的に中心であったと考えられる地域として吉備が有力であると考えられるためです。また、邪馬台国は、大和に存在せず、大和王権につながっていないとする理由は、何よりも「記紀」に邪馬台国の記載がないということに求められています。
 その後、統合されていた吉備の邪馬台国は、二世紀後半には各地域・集団が反目し合い内戦に陥って「倭国大乱」という状態になり、その混乱を収拾すべく宗教的カリスマ性を持つ卑弥呼を担ぎ上げることで休戦が実現し、邪馬台国(ヤマト国)が再生されました。
 一方、大和に拠点を持つ狗奴国は東海を勢力下に収めつつ実力を蓄えていました。そして、「倭国大乱」に乗じて勢力圏を拡大し、河内、播磨といった地域に食指を動かし始め、邪馬台国との戦局でも優勢となっていました。
 卑弥呼は、政治的手腕も持ち合わせていて、狗奴国の脅威に対抗するため、公孫氏を滅ぼして帯方郡を支配下においたばかりの魏に使いを送り、魏の権威と支援をもって戦闘を優位に進めようとしました。しかし、戦局が思わしくないまま卑弥呼は死んでしまい、邪馬台国は接着剤を無くしてバラバラになり、内戦状態となりましたが、この事態の収拾に魏の張政が労を尽くして功奏し、壱与を担ぐことで分裂が回避されました。張政は壱与の擁立を見届けて帰還して行きました。一方、狗奴国はこの邪馬台国の混乱に乗じて河内、播磨を手中に収め、本丸の吉備に迫ってきました。
 そして、狗奴国(ヤマト王権)は邪馬台国との最後の決戦に臨むべく、伊佐芹彦(吉備津彦)とその弟を差し向けて邪馬台国を滅ぼし、壱与は自害して死んだということです。この事態が生じた時代は、三世紀後半とされ、崇神天皇の時代とされています。その根拠は、「記紀」の記載から箸墓はヤマトトトビモモソヒメの墓で、その墓が作られたのは崇神天皇の時代であり、かつその箸墓は考古学的な発掘調査から三世紀後半とされているため、崇神天皇の時代は三世紀後半を含むということになります。それに伴って、崇神紀の四道将軍の派遣も史実と考えることができ、吉備津彦が西海に派遣されて吉備を制圧したということは事実であるとすることで、これを吉備にあった邪馬台国を大和の狗奴国が制圧したというように理解するとうまく辻褄が合うということになります。
 かくして、政治的地殻変動、すなわち「魏志倭人伝」の世界から「記紀」の世界への変動が招来され、「ヤマト」が「邪馬台国」から「大和」へと変動することになりました。そして、邪馬台国が保有していた北部九州・吉備文化が大和王権に引き継がれることになりました。しかも、それは邪馬台国の東遷によってではなく、逆に大和が九州・吉備を浸食していった結果、文化や工人集団が大和にもたらされることになったということです。また、邪馬台国と狗奴国の争いとは、中国の皇帝をミカドとする邪馬台国と、ヤマト自身の王をミカドとする大和との争いであり、大和が勝利して大和王権が確立した結果、中国の配下とならなかったため、空白の四世紀となったものであるとしています。
 この第四の物語の提唱者は、現在失われてしまった世界に誇る日本を取り戻すために自らの神話や歴史を見つめ直し、日本文化の独自性、独創性を顕揚するということをその基本的な立場として持っています。そのため、「記紀に記載の神話は土着の物語を取り込みつつも基本的に大和朝廷が創作したものである。」とか、「記紀に記載の皇統譜の古い部分は大和朝廷によるでっち上げである。」という現在の文献史学の常識を頭から否定し、「記紀」の記載を史実とするとともに、都合が悪いところでは「記紀」は皇室の目から見た我国の歴史を語っているとしています。
 しかし、「記紀」の記載を史実とするこの物語は、考古学的知見に反しており、物語としてはおもしろいとしても、史実を語る物語としては成立するものではありません。というのは、狗奴国とされている纒向遺跡は、唐古鍵を頂点とする大和弥生社会が二世紀末に急に衰退した後、吉備の影響下で突然形成されたものであり、邪馬台国とする吉備と敵対した状態で纒向遺跡、すなわち大和王権の形成はあり得なかったからです。