纒向ロマン 第五の物語

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  「はじめ国家」ロマン 纒向

  第五の物語


 第五の物語は、邪馬台国は吉備で、その邪馬台国が台与の時代に狗奴国の首都の纒向に遷都したというものです。吉備を邪馬台国とする点で第四の物語と同じですが、邪馬台国は滅ぼされたのではなく東遷したという点で異なり、邪馬台国の東遷という点で第三の物語と類似しつつ、狗奴国の纒向に迎え入れられて合体したというものです。これは、岡将男氏が『吉備邪馬台国東遷説』(吉備人出版、2014年)で提起されたものです。
 邪馬台国と狗奴国が争っている間、魏の張政が邪馬台国に到着した後、卑弥呼が死んで男王を立てると分裂して相争う状態になりましたが、宗女台与を立てることで纏まりました。張政の立場からは狗奴国との講和に持ち込んで、邪馬台国、狗奴国とも帯方郡の影響下に置ければ大成功ということであり、また張政は別ルートで狗奴国とのパイプがあったはずと推測しています。そして、狗奴国が邪馬台国を支配すると、張政の調整によって邪馬台国と狗奴国が合体することで合意し、台与が狗奴国の首都の纒向に迎え入れられる形で邪馬台国が大和に移転し、外交と祭祀は邪馬台国が、内政と経済は狗奴国が担当する棲み分けができて倭国の統一が実現することになったとしています。
 この第五の物語の提唱者は、「記紀」の神武東征以降の部分は一定の史実であるとの立場の人であり、広畠輝治氏(『「邪馬台国」岡山・吉備説から見る古代日本の成立』、神無書房、2002年)の説に同調し、狗奴国(大和朝廷)の成立に関して、100年ごろ神武が東征して橿原を都とし、その後の欠史八代は欠史ではなく史実であると考えています。そして、狗奴国の崇神(「記紀」によるBC148年~BC29年ではなく、268年~318年ごろとする)が吉備の邪馬台国の台与を大和へ招聘し(台与は「記紀」ではヤマトトトビモモソヒメとされているという見解です)、台与の助言によってタケハニヤスヒコを破って大和を統一し、台与が死ぬと狗奴国と台与政権の合体、倭国統合を象徴するモニュメントとして箸墓が築造されてそこに葬られ、ここから古墳時代となって大和朝廷が成立するという見解です。
 なお、卑弥呼の墓は鯉喰神社古墳であるとされている。また、投馬国は四隅突出型墳丘墓文化圏の出雲であるとされています。
 しかし、この物語も第四の物語の場合と同様に、「記紀」の記載は史実であるということに拘泥することによって、狗奴国とする纒向遺跡の生成過程の考古学的知見と相容れない物語となっています。