兵主神社

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Ⅰ. 兵主神社の式内社リスト
 式内社とは『延喜式』神名帳(延長5年(927))に記載されている神社で、10万社を超えるとも言われる全国の神社の中で当時「官社」に指定されて祈年祭奉幣にあずかった神社であり、2861社の神社が記載されている。その中に19社の兵主神社が記載されており、さらにその中でも名神祭の対象になる神を祀っている226社の名神大社の中に3社の兵主神社が挙げられている。
 以下に、式内社とされた兵主神社のリストを国別に掲載する。


大和 --2社 
(城上郡)
 ① 穴師坐兵主神社 (名神大社)   桜井市穴師(上社)
 ② 穴師大兵主神社         桜井市穴師(下社)
近江 --2社 
(野洲郡)
 ③ 兵主神社 (名神大社)(大神宮)  野洲市五条
(伊香郡)
 ④ 兵主神社            長浜市高月町横山
三河 --1社 
(賀茂郡)
 ⑤ 兵主神社            豊田市荒井町松島
丹波 --1社 
(氷上郡)
 ⑥ 兵主神社            丹波市春田町黒井
但馬 --7社 
(朝来郡)
 ⑦ 兵主神社            朝来市東町柿坪
(養父郡)
 ⑧ 更杵村大兵主神社        朝来市和田山町寺内
 ⑨ 兵主神社            豊岡市日高町浅倉
(出石郡)
 ⑩ 大生部(オオイクベ)兵主神社   豊岡市奥野字宮山
(多気郡)
 ⑪ 久刀寸(クトワ)兵主神社     豊岡市日高町久斗
(城崎郡)
 ⑫ 兵主神社            豊岡市山本
 ⑬ 兵主神社            豊岡市赤石
因幡 --2社 
(巨濃郡)
 ⑭ 許野乃兵主神社         岩見郡岩美町浦富
 ⑮ 佐弥乃兵主神社         岩見郡岩美町河崎
播磨 --2社 
(芳磨郡)
 ⑯ 射楯兵主神社          姫路市本町
(多可郡)
 ⑰ 兵主神社            西脇市黒田庄町岡二ノ門
和泉 --1社 
(和泉郡)
 ⑱ 兵主神社            岸和田市西之内町
壱岐 --1社 
(壱岐郡)
 ⑲ 兵主神社(名神大社)       壱岐市勝本町本宮(久栄八幡神社)

Ⅱ. 各兵主神社の解説
 次に、個々の兵主神社について、判明した範囲と想像力を働かせて言える範囲で解説する。

① 穴師坐兵主神社 (名神大社)(上社) 桜井市穴師
② 穴師大兵主神社(下社)       桜井市穴師
 『穴師神社由来書』(天明2年(1782))によれば、上社は、元々夕月岳(斎槻岳)=穴師山(409m)に存在していたが、応仁の乱(1467-77)に伴う戦乱で焼け、現在の大兵主神社(下社)の社地に遷され、その際巻向社の巻向坐若御魂神社も合祀されて三社となったとされている。現在の大兵主神社には、中央社殿に兵主神、左殿に大兵主神、右殿に若御魂神の三柱の神が祀られている。
 『大倭神社注進状』裏書によると、社伝曰くとして、上社の祭神は御食津神で、神体は「日矛」(日矛=鏡と解釈する説あり)であり、下社の祭神は天鈿女命で、神体は「鈴之矛」であるとし、にも拘わらず両社共に神体が矛であるため、兵主神と云うとしている。
 また、中央社殿の兵主神は、社伝では鏡を神体とするとされているが、祭神は軍神の大己貴神であるとする説があり、左殿の大兵主神は剣(ホコ)を神体とする武勇の神であり、相撲の祖神であるとされ、あるいは兵主神の親神として素戔嗚尊を祀るとする説がある。また、両者を軍神として天日矛を祖とする氏族が兵主神を祀ったとする説もある。さらに、明確な脈絡なしに断片的に山東八神の一つの兵主神であるという説もある。
 上記『大倭神社注進状』の記載年はその奥書によると仁安2年(1167)とされている。しかし、宮地直一(『神道史序説』)によれば室町末の偽作とされ、また西田長男によると、江戸時代に下って今出河如鶏によって宝永3年(1706)に偽作されたものとされている。
 実際、織田家の戒重藩第4代藩主の織田長清(1683-1714在位)の時代に兵主神社の領主になると兵主神社を崇敬し、元禄2年(1689)6月に叙位を奏請し、社殿を修繕し、元禄3年(1690)8月に太刀一口を奉納し、元禄5年(1692)には京都吉田家に働きかけて神位と縁起を貰い受けている。戒重藩家老の森平右衛門の手記(元禄5年(1692面)11月17日)に記された兵主神社の「縁起」によれば、祭神は大己貴尊で、その武威の故に八千矛神または兵主神ともほめ奉るとし、神体は「八咫の鏡3面」と「天の五鈴一合」と記されている。また、『穴師神社由来書』によれば、宗源宣旨に「大和国城上郡穴師村正一位穴師大明神」とあるということであり、兵主神社が破格の正一位に叙されたと認められる。これは上記元禄5年(1692)の吉田家に対する働きかけで得られたもので、「縁起」もその時に創作されたものであると思われる。なお、京都吉田家というのは膨大な資料と知識を駆使して権威を持って自家にとって望ましい家系図を作ってもらえるということで有名である。そうすると、上述のように『大倭神社注進状』裏書が今出河如鶏が偽作したものであるとすると14年後であり、この「縁起」を参照して作られたものと考えられる。
 兵主神の名が出てくる最も古い例は『三代実録』(延喜元年(901))に記された貞観元年(859)正月27日条の「穴師兵主神」「壱岐嶋・・・兵主神」である。一方、『大倭国正税帳』(天平2年(730))に「穴師神戸」とある。これらのことから、穴師神や穴師神社は古くからあったが兵主神はなく、新羅船の侵寇に対する防衛祈願のために平安初期に多くの社と同様に兵主神社と改名し、穴師座兵主神社となったとする説があるが、兵主神のない穴師神社というのは実体が考えられず、現実性がないと言わざるを得ない。
 しかし、何れも兵主神の本当の由来として所詮納得できるものではなく、何れにしろ文献資料では、本来の祭神である兵主神は神社名以外には残されていなかったことが分かる。
 ところが、この兵主神社の始原が、2009年度の纏向遺跡辻地区の発掘調査で見つかった大型建物群によって明らかになった。すなわち、大型建物群の中軸線が東西方向に向くとともに、北に5°振っていて穴師山の三角形状の頂部を指向しており、かつその穴師山の頂部に嘗て兵主神社の上社が祀られていたということから、大型建物群が存在していた3世紀にその祭殿から戦いの神である兵主神を祀っていたことが現実味を帯びて考えられるようになった。
 兵主神は、山東の斉の八神の一つで、蚩尤がそれに相当し、鍛冶や製鉄の神で、戦いの神であるとされている。そして、漢の高祖(劉邦)が蚩尤を祀って戦って漢王の位に就き、さらに天下統一を果たしており、兵主神は漢の高祖が天下統一に当たって祀った戦いの神である。このような兵主神が3世紀の纒向遺跡にもたらされた経緯について考えてみると、238年に公孫氏が魏に滅ぼされたときに、その残党が魏軍の追討を逃れて以前の交流関係から韓を経て倭に渡来し、纒向の勢力に帰属したときにもたらされたものであると考えるのが最も合理的であると思われる。というのは、後漢末から三国時代にかけて公孫氏は、黄巾の乱を契機にして遼東郡、玄菟郡、楽浪郡を率いて自立し、山東半島北岸を占領しており、その後楽浪郡の南に帯方郡を設けて韓・倭との交渉を管轄しており、公孫氏の帯方郡と韓や倭との交流は略50年にもわたり、高い親密度の交流が存在していたことが伺われる。従って、公孫氏が滅ぼされたときにその残党が倭の交流先に逃れ、帰属した纒向の勢力に対してその戦いの勝利を願って漢の高祖が祀った山東の戦いの神である兵主神をもたらした可能性は大いにあり、現に纒向で兵主神を祀っていたと考えられることからこれが事実であると思われる。
 また、兵主神社の社地の「カタヤケシ」という場所に摂社の相撲神社(祭神は野見宿禰)が存在している。『日本書紀』の「垂仁紀」に、天皇の前で野見宿禰と当麻蹴速が相撲を取り、野見宿禰が勝利して土師氏の祖となったという記事があり、また伝承の実体は不明であるが、穴師の字カタヤケシの地に「ここで戦ったという伝承」があったということであり、それを根拠に作られた神社であると思われる。
 ただし、元来兵主神と相撲が全く無縁であるということではない。『述異記』には「角力で蚩尤にかなうものなし。」とあり、また冀州では頭に牛頭を戴いて相うつ蚩尤戯が行われており、漢の角牴戯はその遺制であり、それが相撲となったとされている。『荊楚歳時記』には、蚩尤は悪魔をはらう守護神であり、魔除け行事として夏至、5月5日に相撲をとる、と記されている。『夢梁録』には、「角抵者、相撲之異名也」とあり、『倭名抄』には「角抵。今之相撲也。」とある。このように兵主神と相撲は関係があり、兵主神社で夏至に魔除けの相撲がとられていた可能性が考えられ、それが『書紀』で土師氏の始祖譚に利用されたと思われる。

③ 兵主神社 (名神大社)(大神宮) 野洲市五条
 この兵主神社は、社伝「兵主大明神縁起」によれば、元は大津市坂本穴太町に存在していたが、欽明時に播磨別の野洲移住に伴い現在地に遷座したものとされている。なお、『日本書紀』の安閑2年(535)(=欽明4年)には、近江国葦浦(草津市葦浦=野洲川下流南部)に屯倉を置いたという記事があり、欽明時に屯倉を置くのに伴ってその守護神として坂本穴太から遷座した可能性が十分にある。その後、養老元年(717)に、元正勅定により社殿を創建したとされている。また『続群書類従』(慶長9年(1604))所収の「兵主神社縁起」によれば、養老2年(718)に五条播磨守資朝が、不動明王が降臨して影向した兵主の神を祀ったとされている。
 この兵主神社の場所は、野洲川下流北部の田園地帯で、旧住所が野洲郡中主町五条の兵主郷であり、野洲川の琵琶湖岸の八ッ崎では、兵主神が坂本穴太から湖上を渡って漂着した場所として八ッ崎神事が行われている。
 その後、『三代実録』では貞観4~16年(862~874)の間に従五位上から従三位に昇進している。花山天皇(984~986)は「正一位勲八等兵主大神宮」の勅額を贈っている。また、社伝「兵主大明神縁起」及び『近江国輿地誌略』によれば、源頼朝が武運を祈り、統一後に加護(社殿を造営)しており、さらにその後足利尊氏が社殿を再建するとともに神領を寄進し、江戸時代にも徳川将軍家から神領を受けており、今日の隆盛の礎となったと思われる。
 一方、この野洲の兵主神社のもとである穴太の兵主神社の始原については、社伝「兵主大明神縁起」に、景行時、国平御矛(八千矛神)の神威を畏み、穴師の地(穴磯邑の大市長岡崎)を卜して兵主大神と仰ぐ。そして、景行58年の高穴穂遷宮時に宮居に近い穴太に遷座したという記載があり、穴師の兵主神(=八千矛神)が遷座されたものとされている。
 しかし、『日本書紀』の景行58年の高穴穂遷宮という記事自体が前後の脈絡が全く無く、景行はそのまま亡くなっており、遷宮の理由を見出せないので事実とは考えられない。恐らくは、崇神(イニエ)により確立された初期ヤマト王権が、倭の五王の時代の大和王権の初代王であるホムタワケの勢力に押され、イサチ王の時に宮を大和から近江の大津に遷したことを景行紀に記述したものと考えられる。神功紀において、押熊王が宇治から近江に移動し、瀬田の渡りで滅亡するが、その際「いざ吾君、五狭茅宿禰、水に潜って死のう」と呼びかける歌を詠んでおり、その「イサチ」は初期ヤマト王権の最後の王(垂仁=イサチ)であったと思われる。かくして、初期ヤマト王権の終末期にホムタワケとの戦いに備えて近江の高穴穂に遷宮するときに、初期ヤマト王権の創生時に祀った戦いの神である兵主神を近くの穴太に遷座したと考えるのが妥当である。

④ 兵主神社  長浜市高月町横山
 伊香郡の兵主神社で、宗教法人登記をしていない。社地は和歌山市の横山氏の所有である。

⑤ 兵主神社  豊田市荒井町松島
 矢作川と籠川の合流点に立地している。祭神は、大物主命(大穴牟遅神、八千矛神)、須佐之男命、三穂津姫命など7柱になっている。

⑥ 兵主神社  丹波市春日町黒井
 福知山の南で、大丈寺山南麓、黒井川の北に鎮座し、竹田川を経て由良川に出られる位置に立地している。後に背後に黒井城が作られるような立地である。聖武天平18年(746)に兵庫の守護神として鎮座されたものである。中世には『丹波志』に「社僧兵主山神光寺」と記すように神宮寺「神光寺」が存在した。現在の祭神は、大己貴大神である。

⑦ 兵主神社  朝来市東町柿坪
 現在の祭神は大己貴神である。創祀年不詳であるが、持統4年(690)創立の説あり、寛永10年(1633)に現在地に遷ったとの説もある。

⑧ 更杵村大兵主神社  朝来市和田山町寺内
 更杵村は今の寺内の古名である。『国司文書但馬故事記』に、持統2年(688)に養父郡の兵(養父軍団)を養父郡糸井郷に設け、兵庫を設け、大兵主神を祀ったと記されている。

⑨ 兵主神社  豊岡市日高町浅倉
 円山川の支流稲葉川(中川)南側で、北側の多気郡と分ける浅倉の中心の小丘に鎮座している。現在の祭神は大己貴命である。創建年代不詳だが、『国司文書但馬故事記』に、養老3年(719)創建とされている。

⑩ 大生部兵主神社  豊岡市奥野字宮山
 穴見谷最奥部に近い位置に鎮座し、穴見川から六方川を経て円山川に出られる立地である。『国司文書但馬故事記』に、天武12年(683)に三宅連神床と大生部了が当社を祀ったとされている。

⑪ 久刀寸兵主神社  豊岡市日高町久斗
 江原駅西3キロに鎮座している。大化3年(647)に多気郡の軍団に兵庫を設け、兵主神を祀った。

⑫ 兵主神社  豊岡市山本
 円山川東、豊岡駅北東1.5キロに鎮座している。天平18年(746)に佐伯直岸磨が創立。

⑬ 兵主神社  豊岡市赤石
 円山川東、豊岡駅北4キロ、玄武洞手前に鎮座している。白鳳12年(683(九州王朝の私年号であれば672になるが、九州年号は考えられないので天武12年と同義とする))に韓国連久々比が兵庫の守護神として祀った。
⑭ 許野乃兵主神社  岩美郡岩美町浦富
 千代川東方、岩見駅西の宮ノ谷という山の中腹に鎮座している。巨濃郡の兵主社の総社的存在か。現在の祭神は大国主命・素戔嗚命である。

⑮ 佐弥乃兵主神社  岩美郡岩美町河崎
 千代川東方、岩見駅南西の浦生川の沖積地に立地、かつては400m上流の小山の頂に鎮座していたと伝えられる。有力氏族(佐弥氏か?)の祀る神社として式内社とされたか。現在の祭神は天照大神である。

⑯ 射楯兵主神社  姫路市本町
 市川西、姫路城中曲輪東南隅に鎮座している。射楯神と兵主神が併せ祀られ、さらに171座が一括して祀られて総社となっている。欽明21年(560)、飾磨郡伊和の里水尾山に兵主神が祀られる。延暦6年(787)、坂上田村麻呂が兵主神を国衙の小野江に遷し、射楯神を併せ祀る。

⑰ 兵主神社  西脇市黒田庄町岡二の門
 加古川が播磨へ出た地点の黒田庄に鎮座している。延暦元年(782)岡本修理大夫が国衙赴任時に社をつくり、延暦3年(784)穴師の兵主神を勧請した。

⑱ 兵主神社  岸和田市西之内町
 春木川の近くに鎮座している。大宮と呼ばれている。祭神は、明治期には八千矛大神が主神であったが、現在は天照皇大神である。

⑲ 兵主神社  壱岐市勝本町本宮(久栄八幡神社)
 現在は、壱岐市葦辺町深江本町触とされているが、錯覚によるものである。
 延宝4年(1676)、橘三喜が所在不明の兵主神社に苦慮したあげく、勝本の聖母神社を兵主神社に査定してその石額を新調した。聖母神社は日吉山王権現に査定した。延宝7年(1679)、箱崎八幡宮祠官吉野末益が聖母神社を復旧し、新調の石額を日吉山王権現に懸け、現在に至っている。
 本来は勝本町本宮(北部西岸)の久栄八幡神社(旧本宮八幡)が兵主神社である。『壱岐嶋式社沿革考』に「式社兵主神社の旧記は悉く本宮村とあり、又縁起の文に依る時は、本宮村の宗社八幡宮が式内の兵主たるあきらかならん。中世に八幡神を勧請合祀した。延宝以前、八幡宮を式社とし、」と記載されている。

Ⅲ. 総括
 兵主神社は、当然のことながらその神社名から本来兵主神を祀っていた神社であり、その兵主神とは山東八神の一つの兵主神とみる以外、他に見当たらない。そうすると、山東の戦いの神である兵主神が何時どのようにして日本にもたらされ、その神威が認められたのかということになるが、既に述べたように3世紀に魏(司馬懿)に滅ぼされた公孫軍の残党が、それまでの交流ルートを通って交流先の狗奴国(纒向の勢力)に帰属し、魏が後押しした北部九州の邪馬台国との戦いに参加し、その戦いに当たって兵主神を祀って戦いに勝利したことによってその神威が認められたと考えるのが最も妥当である。かくして、兵主神社は3世紀に遡る最も古い神社の一つであるということになる。
 一方、現在各兵主神社においては、その祭神は殆どが大己貴や素戔嗚や八千矛など、『記紀』に記載された神々になっている。しかし、祭神が大己貴や素戔嗚などであるのに神社名が兵主神社になるというのは不可思議であり、元々兵主神を祀った兵主神社があってその神威が認められていたが、兵主神を祭神とすることが好ましくない状況若しくは祭神の由来を説明することができない状況が生じた結果、兵主に結びつけることが可能な武神を探し出して祭神にしたというのが実態であろう。ただし、そうなるのは後の時代である。
 兵主神を祀った兵主神社は、狗奴国が吉備、出雲、東海、近江、北陸など列島内各地の勢力と連合しつつ邪馬台国連合と戦って勝利した後、初期ヤマト王権(前期古墳時代の王権)が成立することにより、その武神としての神威が高く評価されたものと考えられる。しかし、初期ヤマト王権の確立とともに、兵主神をもたらした公孫軍の残党勢力は権力の中枢に吸収され若しくは中枢から外されていった結果衰退していったと思われるが、兵主神の神威は語り継がれた可能性が高いと思われる。
 その後初期ヤマト王権が、初代のイニエ王(崇神)から何代か経てイサチ王(垂仁)(最初と最後の王イニエとイサチの名前は何とか残ったが、中間の王の名前は忘れ去られていたものと思われる)の時代(4世紀後葉乃至末)になると、「倭の五王」に代表される大和王権(中期古墳時代の王権)の初代王であるホムツワケ(応神)が畿内に向けて侵攻し、それに対する戦いで不利な状況に追い込まれた結果、近江の穴穂宮に遷宮(景行紀58年)することになり、その際に戦いの神である穴師の兵主神社が遷座されたものと考えられる。それが現在の草津市五条の兵主神社の前身である大津市坂本穴太の元兵主神社である。しかし、結局初期ヤマト王権はそのまま滅亡してしまい、ホムツワケ(応神)、イザサワケ(仁徳)、イザホワケ(履中)、ミズハワケ(反正)、オアサズマワクゴ(允恭)、アナホワケ(安康)、オオハツセワカタケ(雄略)という大王が継続して統治する大和王権の時代となる。この大和王権の時代は兵主神が祀られた形跡はなく、兵主神社は一旦衰退せざるを得ない状況に追い込まれたものと考えられる。
 次に、兵主神が注目されるのは欽明大王の時代である。欽明大王は蘇我氏とともに、継体大王の末年にクーデター(継体紀25年(531))を行い、新たな統治機構を構築する。すなわち、仏教を新しい統治理念として導入するとともに、中央による地方豪族の制度的な統治に向けて国造制を導入し、中央の伴造(トモノミヤツコ)の経済的・軍事的地位を強めるように部民制を一新し、全国的な軍事組織を作り上げる拠点として王権の直轄地とその管理施設としての屯倉を全国各地に一挙に設置し、これら国造制と部民制と屯倉制を三本柱とする統治機構を構築した。そして、重要と思われる地域における屯倉の設置に当たってその守護神として兵主神を祀ったものと考えられる。その代表例が、③の名神大社で大神宮と呼ばれる近江の野洲市五条の兵主神社であり、新たに設置した屯倉の守護のために坂本穴太の兵主神を遷座したものと考えられる。また、⑯の播磨の姫路市本町の射楯兵主神社もその伝承から欽明時に祀られたものであると考えられる。また、記録はかけらも無いが、名神大社である⑲の壱岐の兵主神社についてもこの時代に創祀された可能性がある。というのは、欽明大王は任那(金官加羅)の再興に異常な程こだわり、侵攻した新羅を追い出すため百済との連携を強めて兵糧と援軍を送っており、その軍の守護のため壱岐に兵主神を祀った可能性はある。その後に壱岐に兵主神を祀る可能性があるのは新羅・唐との戦いに軍を派遣した斉明の時代であるが、天智の時代には兵主神は疎遠であるため、可能性は低いように思われる。何れにしろ、畿内に集中して分布する兵主神社が遠く離れた位置に孤立して祀られ、かつ名神大社とされていることから想像してこれ以外に考えられない。
 その後、親百済政権である蘇我系政権に対するクーデター、すなわち乙巳の変が起こされ、そこで成立した親新羅政権の孝徳大王の時代の大化3年(647)に、但馬の多気郡に兵庫の守護神として⑪の久刀寸兵主神社が祀られている。次いで、壬申の乱(乙巳のクーデターに対する反クーデターにより成立した天智朝に対する再クーデター)により成立した親唐・新羅政権の天武・持統朝の時代に、同じ但馬国に⑬の兵主神社(城崎郡)、⑩の大生部兵主神社(出石郡)、⑧の更杵村大兵主神社(養父郡)、⑦の兵主神社(朝来郡)が逐次兵庫の守護神として祀られていった。これは、東国を拠点として畿内を制圧し、中央政権を手中に収めた天武持統朝にとって西国に対する畿内防御の拠点として、乃至は何らかの事態が発生した時の兵站拠点としてシステマティックに兵庫を設けたことを示しているように思われる。なお、個々の神社の創祀年や創祀譚についての記述や伝承については信頼性に欠けるようにも思われるが、全体を総体的に見ると一定の客観性をもって史実を反映していると考えて良いと思われる。
 その後、平城京遷都後は、養老3年(719)に⑨の兵主神社(養父郡)、天平18年(746)に⑥の兵主神社(丹波氷上郡)と⑫の兵主神社(城崎郡)が創祀され、さらに延暦元年(782)には播磨多可郡の国衙への赴任に伴って社を創建し、穴師の兵主神を勧請して⑰の兵主神社が創祀されており、折に触れて軍団や兵庫や国衙の守護のために兵主神が祀られたと言え、兵主神社の創祀は散発的になっている。
 なお、近江伊香郡の④の兵主神社、三河賀茂郡の⑤の兵主神社、因幡巨濃郡の⑭の許野乃兵主神社と⑮の佐弥乃兵主神社、および和泉郡の⑱の兵主神社については創祀年代等、全く不明であるが、以上の年代幅の中で何れかの時代に同様の経緯で創祀されたものと考えて大過ないように思われる。
 さらに、その後の百済系の桓武天皇と藤原氏が主導した平安京遷都後は、兵主神社の創祀は無くなったものと考えられる。それは、日本の国家的統一がなされると共に対外的な危機がなく、かつ「紀」の学習が行われて国家成立が「記紀」神話に基づいて理解されるようになったこと、また武神としては石清水八幡宮が宇佐八幡宮から勧請されたように八幡神が崇められるようになったことよるものである。神社祭祀もそれまで国家管理下で特に重要視して伝統的に行われていたもの、すなわち具体的には『延喜式』神明帳に挙げられた式内社を除いて、「記紀」に記載のない神々に対する祭祀は各地域で独自に生き延びたもの以外は廃れていったものと考えられる。それに伴って、各兵主神社においても、先に述べたようにその祭神を「記紀」記載の神に変更するとともに、村落共同体が結束するための精神的支柱として地域の氏神として生き残りをかけたものと考えられ、そうしたものだけが祭祀を継続できたものと考えられる。
 そうした中で近江野洲郡の③の兵主神社は、欽明時の遷座後も平城京・平安京時代を通じて崇められ、さらに源氏や足利氏など中世の武家勢力に武神として崇められたことにより長く隆盛を保持できた稀有な例であり、兵主神社の始原である穴師の兵主神社については、江戸時代に織田氏によって一時的に盛り上げられたが、村の氏神神社(郷社)として祭祀が継続されるだけとなっている。

 この「兵主神社」の文章には、「纒向の王と兵主神」という文章が付随しています。Menu欄のタイトルをクリックして開いてください。