日本における国家の発生・展開

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日本における国家の発生・展開過程

-----この文章は、『古代史の海』第37号(2004年9月)に掲載した同題名の文章の一部を抽出して再録したものです-----

Ⅰ. 国家についての認識
 国家の発生について論じるには、「国家とは何であるか」ということを明確にすることが先決要件となる。この「国家の定義」を考察する際には、最初に国家論が展開されたF.エンゲルス著の『家族・私有財産・国家の起源』(以下、『起源』と称す)で説明された国家論を避けて通ることはできない。『起源』の国家論においては、氏族社会が解体して社会が諸階級に分裂すること、諸階級に分裂した社会を滅亡させないために社会の上に立って階級対立を制御し、公共的機能を実行する公権力・第三権力としての国家が成立すること、結果として国家は支配階級のための道具として機能するものであることを指摘している。また、氏族社会との対比において、(1) 人民の地域区分(氏族社会の血縁による紐帯との対比)、(2) 公権力の樹立(住民の自発的な武装組織との対比)、(3) 公権力維持のための租税の徴収(氏族社会では未知)、(4) 公権力と徴税権を掌握して社会の上に立つ官吏の生成(氏族制度の諸機関との対比)を、国家の特徴として指標的に提示している。
 文献史学においては、『記紀』の記述と古墳の登場を観念的に結び付けて解釈し、古墳の登場を大和朝廷の成立と見なし、古墳時代に国家が成立していたとする旧来の素朴な見解に対して、『記紀』の文献批判を行うとともに、『起源』の国家論を基本的に受け入れてその国家の特徴として提示された各指標をかなり厳格に適用することにより、日本においては国家は八世紀に至って律令国家として成立したとする説が通説となって来ていた。
 しかし、近年国家の成立要件を貧弱にし、若しくは抽象的で茫漠としたものとすることによって、国家の成立時期を早める見解が出されるようになっている。例えば、長山康孝氏(「国家と豪族」『岩波講座 日本通史 第3巻 古代2』 1994年)は、上記『起源』の国家論を、単純に、「国家を階級支配の手段、人民支配機構として認識しているもの」と決めつけ、国家の本質を鋭く衝くが、多分に一面的で国家の性格や存在意義を総体としてとらえきっていないと評価している。即ち、国家は階級支配の手段にとどまらず、社会の内部要求に基づいてこれを統合する独自の機能をもつこと(『起源』の国家論もこのことを否定していないことは明らか)、さらに単なる機構としてのみ存在するのではなく、統合的な団体としての性格を持ち、その団体とは一方で村落・都市などの延長上であると共に、他方で観念的な幻想共同体としての性格をもち、国家を構成する人々にとっては「特別な存在」であることを主張する。
 国家というものは、たんなる政治権力を越えた特別な存在であって、そのことが人々によって認知されることによってはじめて国家たりうる。国家は、社会の内部に統合への強い要求が存在するとき実体支配を越えて形成されるもので、国家は一筋縄ではゆかぬ複雑な存在である、という。さらに、以上の国家の本質(何が本質?)に対する理解の欠如が国家理解の硬直化・国家の固定観念をもたらすなどと主張する。また、これによって地域国家の併存していることで統一国家の存在を否定することを否定し、律令国家以前に幻想共同体(?)としての国家が成立していたとする。
 このような観念的で茫漠とした「国家」は、国家の成立を律令国家以前に遡らせること自体の適否は別にして、実体規定が極めてあいまいであるため、その成立時期をはるか悠久の霧の中に求めることも可能となる。そのため、国家は日本民族の成立当初から存在して永遠に継続するものであり、無条件に崇敬すべきものである、というような国家観にも利用される恐れが多分にある。
 一方、考古学の分野では、都出比呂志氏(「日本古代の国家形成論序説--前方後円墳体制の提唱」『日本史研究』343号 1994年)が、階級関係、身分制秩序、中央・地方の権力関係、軍事編成などを国家たる指標として設定し、それらの指標の有無や形態を分析し、完全に満たされる成熟国家(律令国家)に対して、不完全であっても萌芽や前駆形態が認められるということで初期国家という概念を持ち出し、古墳時代は初期国家段階であるとし、広い意味での国家の発生を古墳時代まで遡らせている。
 そこでの「初期国家」は、首長居館の隔絶、隔絶した首長墓(前方後円墳)の成立などに見られるように、階級関係が顕在化して首長が支配者に転化し、権力の形態では倭人を代表する中枢政体と地域権力が併存し、中間首長による間接支配がなされ、身分制は相互承認関係であり、軍事編成を持ち、物流は共同体内外の貢納関係によるものである、等の指標が提示されている。
 しかしながら、国家の成立を左右する「初期国家」論が、このように適当に選択された指標で相対評価するだけのものでは、判断のさじ加減でどのようにでも規定可能であり、結局、何をもって国家とするのかという本質的で概念的な定義なり、規定を欠いているため、国家及びその成立は不明瞭である。
 また、寺沢薫氏(『王権誕生』 講談社 2000年)は、階級関係成立後の階級対立の調整機関としての国家という内在的要因による狭義の定義とは別に、広義の国家として、地域的小世界を形成する共同体そのものが外部に向けて政治的な権力を共同の意志と幻想として発動するものは国家であるとし、このような部族的国家は、国家以前の社会が近隣の完成した国家と接触を持つことによって発生する外在的要因で発生する二次的国家であるとし、かくして国家の発生を北部九州では弥生前期末まで遡らせている。
 しかしながら、このような国家の定義は、それ自体は可能な定義てありまた外在的な要因による国家の発生過程は良く説明するが、戦争する段階の共同体は国家であるというような概念規定では、その後の国家の展開過程を説明する原理を持ち合わせていないため、適切に認識することはできない。
 また、広瀬和雄氏(『前方後円墳国家』 角川選書 2003年)は、前方後円墳が築造された時代には、大和の首長を盟主として各共同体の首長層のネットワークが形成されており、それを大和の首長を盟主とする首長層の「支配共同体」であると認識し、その「支配共同体」は領域、軍事権、外交権、イデオロギー的共通性を持っていることで国家であるとし、前方後円墳国家が存在するという。その国家とは、弥生時代以来の共同体の首長間に階層性を生じ、首長間に存在していた対等な互酬システムが大和の有力首長を中心に更新されるとともに、大和の有力首長が国家を支える共同幻想としての前方後円墳祭祀を作り出すことで成立した国家であり、大和の有力首長が共同統治した国家であるとする。
 このような国家像も、国家の内実にかかわる「支配共同体」なるものの存在自体とその実体である上述の領域、軍事権、外交権などの実像が不明瞭である。例えば、古墳時代前期の大和の王権において、その領域とは、果たして「国家の領土」に対応するようなものなのか、そもそも何をもって領域としているのか、前方後円墳の分布範囲を領域としているのであれば、その分布範囲をもって国家の領土に対応するような領域とすることができるのか、考古学的な遺物や遺構の分布をもって国家の領域とすることはできるのか(できるはずがない)、などの疑問を禁じえず、軍事権や外交権についても同様である。
 以上のように、日本列島においては、『起源』の国家論で定義された国家では、八世紀の律令国家に至らないと成立しないが、それでは、律令国家以前の弥生時代や古墳時代、特に列島的に統一化の進展した古墳時代中期以降の社会構成体について、勿論それぞれ社会構造上の特徴は列挙されるが、国家との関連では一括りですべて国家以前としてしかとらえられず、共同体社会と国家の間の社会構成体の特性を国家との関係で概念的に把握できないことになる。そこで、上記のような初期国家論が提起されたり、国家の存立要件を貧弱にすることによって国家の起源を遡らせることが行われようとしており、そのような試み自体は評価できることである。
 しかし、それと並行するように、国家は階級支配の道具ではないという観点から、公共的な機能を持つことに国家の存在理由を求め、階級対立以前に広い意味で国家が成立したとする論理の中で、国家概念を抽象化し、観念的で抽象的な統合観念の成立が国家の成立要件であるというような国家論までが提起されるようになっている。
 そこで、翻って、『起源』の国家論において、国家の成立要件が導かれたアテナイ国家の成立過程がどのように認識されていたかを見直し、国家の成立要件をより一般的に認識し直すことにする。
 アテナイでは、土地が私有財産化しても、各部族が胞族ごとにそれぞれの都市に住んで氏族社会をかろうじて維持している英雄時代から、商品の生産・流通の発展によって、居住地の混在、貨幣・高利貸付による市民の抑圧、富による階級分化が発生し、氏族社会の制度ではコントロールできない事態が発生し、それに伴って新たな秩序としての国家機構が創成されて行く過程が認められる。
 その国家形成過程では、エンゲルス自身が述べているように、外的・内的な暴力行為の介入なしに氏族社会から直接国家が出現しているという意味で純粋な過程であり、その意味で理論的な典型例であるということであって、各地域で普遍的に見られる歴史過程であるという意味での典型例ではない。事実、具体的には説明できていないが、ローマやゲルマンでは、異なった過程で国家が形成されることを説明している。従って、我々は、日本列島での氏族社会の解体から国家の形成に至る過程を具体的に認識することが求められ、その過程から国家形成過程とその論理を導き出すことが求められているのであり、アテナイの場合とは全く異なった過程を経ていることは自明のことである。
 まず、決定的なことは、アテナイでは氏族社会を解体させるに至った商品の生産・流通が、日本列島では律令国家に至ってさえ登場していないという事実である。日本列島では、本当の商品生産と商品の貨幣による流通が一般化するのは、宋銭が大量輸入された中世以降のことであって、律令国家においてさえ、広域物流の最も主要な部分は税による貢納システムでしかないのである。
 基本的な生産は共に農業生産てありながら、このような違いをもたらした最大の原因は、同じ農業といってもその質の違いにあると考えられる。即ち、粗放で大規模生産が可能な畑作の麦やぶどうなどは商品化が進展し易く、それに伴って分業が発展し易いのに対して、極めて労働集約性の高い水田稲作では、大土地で大量の奴隷を使って大規模生産し、商品化して都市に向けて供給するというようなことは不可能であり、このことが商品の生産と流通及びそれに伴う分業の発展によって氏族共同体を解体せしめるというような展開を実現せしめなかったのである。なお、この集約性が中世に地縁共同体が形成される大きな要因となったと考えられる。
 しかし、その一方で、典型的な氏族社会の機構は、当然のことながら、古代律令国家が成立した段階では解体しており、その前段階の古墳時代においても、氏族社会に典型的に見られる共同体は完全に解体していないとは言え、その様相を大きく変容させていたと考えられる。
 ここで、認識の混乱を避けるために、筆者が氏族社会の典型的な共同体をどのようにイメージしているかを提示しておくことにする。氏族社会における典型的な共同体とは、『起源』に記載のイロクォイ族の共同体に見られるものである。即ち、氏族員は一つの領域にまとまって居住し、平等な氏族会議によって共同体の運営が決定され、その氏族会議で首長の選出が行われるとともにその罷免も可能であり、首長の主祭によって宗教的儀式が行われ、氏族員は共助・防衛の共同義務を有し、すべての氏族員は死亡すると共同墓地に葬られ、氏族員の遺産は残り氏族員に帰属するというような運営形態を特徴とするものである。以上のような氏族社会における共同体の本質規定としては、複数の構成員からなり、その構成員が集団の部分要素として存在する集団であり、集団内で、(1)実質的平等原理、(2)全人的保護原理、(3)全人的拘束原理、が貫徹する集団であると規定できる。
 このような氏族社会は、日本列島においては、弥生時代の前・中期の農業共同体において形成されていたものと考えられ、その後このような共同体が解体するのに伴って、それに取って代わって人民の支配と保護管理を行うものとして形成されてくるのが国家であるとすると、上記のような共同体がアテナイのように急速に解体するのでなければ、その解体の程度に応じて国家も未分化で低度のものから、より高度なものへと展開して行くものとして把握することが適切であると言える。この観点から筆者は国家を次のように定義する。
 国家とは、共同体自体による共同体運営にとって代わって共同体を越えた地域社会を円滑に運営するために発生した機関であり、地域社会の人民及びその人民が取り結んでいる各社会構成体を統御する主体として、共同体又はその構成員から外化された機関で、その地域において最上位にあるものであり、次の少なくとも一つの機能を持つに至ったものである。
 (1) 共同体を超越した統治主体が領域内のすべての人民を支配する権能を持つ。
 これは、領域内の共同体や人民が統治主体による統治を認めることによって成立する観念的な統治権能を含む。また、その統治権能に対応した限りでの対外代表権も持つことになる。
 (2) 統治主体が人民を支配するための指示・命令系統を持つ。
 これは、単純な命令系統を持つということから、より高度な組織的命令系統の任命権または最終承認権を持つということ、さらに最終的には行政官僚機構を持つということである。
 (3) 命令の実行を担保する権能を持つ。
 これは刑罰を課する権限と能力を持つということであり、間接的な刑罰権から、より高度にはすべての人民や組織に直接死刑を含む刑罰を課すための警察、裁判、軍事機構を持つということである。
 以上の国家の定義は、国家の成熟度合いに応じて(1)、(2)、(3)の権能をほぼ順次持つに至りかつそれらの権能の実体的な機構が高度化するということを意味し、また国家は各地の特殊事情に応じてそれぞれ多様な特質を持って成立するということを意味する。
 なお、以上の国家の定義においては「階級」概念を敢えて用いていない。「階級」自体は、「社会構成体の運営上の各機能を担う主体が、その構成員の中で分化・固定したもの」と定義でき、「国家」との関係では、国家の成立している社会構成体の構造を別の面、すなわち生産手段の所有関係の面から認識したものであり、国家の成熟度合と階級分化は相互に対応している。従って、階級関係は国家の形態を規定する最も重要な要件であるとしても、国家は階級によって定義されなければならないというようなものではなく、各歴史段階における国家及び階級関係の実体は共に相互的に説明されるべきものであるということである。硬直的な旧来のマルクス主義がとったように、「階級」なるものが物神的に存在し、その「階級」間の対立によって歴史が動かされているというような理解はとるべきでないと考えている。
 また、マルクス以後の国家の成立過程に関する説として、E・R・サービスによって、血縁により結合した小集団から成るバンド社会、汎部族的ソダリティー(非居住擬制集団)、すなわち共通の祖先観念・系譜意識を持つ氏族(クラン)、年齢階梯団、秘密結社などや、呪術・祭祀などを通してバンドを大集合して構成されている部族から成る部族社会、経済・社会・宗教活動のセンターが発生し、生産の特殊化と統制センターからの再分配機構の成立に伴って社会的ランクを発生させているが、社会的クラスは発生せずに親族社会の埒内にある首長制社会、親族関係が社会の基礎になさず、官僚制を基礎として統治が行われる国家社会へと展開するという説が提起されている。
 しかし、この説は国家社会に向けての社会構造の変化を説明するものではあるが、国家社会以前の首長制社会や共同体を基礎とする部族社会を国家との関係で概念的に認識するものではなく、また国家を完成された形態のみで認識するものであり、国家形成後の国家の展開過程を認識する論理を持たないという限界がある。

Ⅱ. 日本における国家展開の素描
 次に、上記のように国家をとらえたとき、日本列島における国家の発生とその後の展開過程はどのようなものと認識できるのか、その全体的な流れを鳥瞰的に素描する。
Ⅱ.1 原始共同態
 まず、旧石器時代や新石器(縄文)時代においては、生物学的な共通性に規定されて人類史にほぼ共通する単純な原始的血縁組織を主体とし、定常的な社会的組織を有していない原始共同態の社会が形成される。それでも、縄文時代になると、温暖化による環境変化に伴う生産様式の変化(大型動物の狩猟中心から弓矢による小型動物の狩猟、土器を用いた堅果類の処理技術の確立による食料化など)によって定住化し、それに伴って原始的血縁組織の連合体が形成され、広域の交通も行われ、定常的な社会組織が形成されるようになる。
Ⅱ.2 弥生農業共同体
 次に、弥生早期・前期・中期の時代においては、水田稲作の流入に伴って前代からの血縁組織に基礎をおきながら、土地の共同占有と共同労働を円滑に実行するために、より強くかつ広いリーダーシップが要求され、そのような機能を担う首長を戴いた弥生農業共同体が形成される。なお、弥生農業共同体の安定と発展は共同体間の交流を盛んにし、さらに極東アジア社会との交流、特に漢帝国により朝鮮半島に設置された郡との交流によって、農業共同体は、実質的に固定化された首長が法的支配権は持たなくても実効支配するものに変質する。このような段階に達した共同体を筆者は変成共同体と称する。しかし、この段階ではなお、首長が共同体と未分化に一体化したものとして存在している氏族社会の範疇にある。
Ⅱ.3 一次国家
 次に、弥生後期から古墳時代前期の時代においては、恐らくは楽浪郡の衰退と交流の途絶をきっかけにして旧来の共同体が立ち行かなくなり、新たに共同体の枠を越えて統治権を有する王が、韓などの新進勢力との交流を担うものとして登場し、ここに王の統治権を認めた最もプリミティブな一次国家が形成される。この段階の王は、複数の共同体(変成共同体)を統合して統治する権能を有するが、その指示命令系統は変成共同体の首長を介したもので、かつ首長の任命・承認権を持つものではなく、命令の実行を担保する刑罰権なども持たない。
 王の権能の根源は、当初は王の武力と共同体側からの統合の必要性によって人々に認められたことによるものであり、そのため弥生後期に一次国家が成立した地域は限られていたが、隔絶した王墓(弥生墳丘墓)がさらに前方後円墳祭祀の創造によって王権継承儀礼の場となり、そこに王権の根源を求めることができるようになると、日本列島の広域にわたって一気に一次国家が成立するようになる。前方後円墳の急速かつ広汎な分布は、日本列島内の弥生農業共同体が均一性を持って成熟していたことにより、前方後円墳祭祀の成立とともに列島規模で一斉に受け入れられ、その結果同様の一次国家が短期的に全面的に展開したことを示すもので、考古学的遺物に鑑みても権力関係を示すものではない。この王権の基礎にあるのは上述の変成共同体であり、それを前提にしてその上に立つものとして成立しており、この一次国家(王制)の成立は血縁的共同体に基礎を置いた統一過程の進行を示し、それは同時に血縁的共同体を解体させて行く過程でもある。
 なお、前方後円墳祭祀を創造した大和の勢力は、各地域の連合と急速な複合化によって成立し、その成立過程の中で前方後円墳祭祀が創造されたのであり、大和は前方後円墳祭祀の発信者として観念的な最上位の統治権限を持ち、その権限を前方後円墳祭祀とともに各地の王に分権し、また各地においてもさらなる分権関係からそれぞれ上位と下位の序列をもっていたものと考えられ、またその分権に付随してある程度の貢納的な交通関係は存在したものと考えられる。しかし、その序列は上位のものが下位のものに対して支配権を保持しているというような支配従属関係を示すものではない。
Ⅱ.4 二次国家
 次に、古墳時代中期・後期から飛鳥時代においては、列島規模で統治権能を有する大王が登場し、変成共同体の首長を統合支配している各地の王を直接支配する中央政権が存在する二次国家が形成される。一次国家における分権システムから二次国家における中央と地方の支配関係に移行したのである。ただし、二次国家においては、大王は各地の王に対する指示命令系統は持つが、機関による組織的なものではなく、人的結合によるものであり、また命令の実行を担保する各地の王に対する軍事的制裁権能はもつが、刑罰権は持っていない。
 その後、こうした大王権力の継続の中から、中央の地方に対する支配権がより直接的かつより強くなって行き、国造制、氏族制、中央豪族による部民制の形成へと進み、さらには各地の王の支配を部分的に否定してより直接的に支配する屯倉が形成されるようになる。こうして、中央豪族や地方豪族の血縁的共同体を基礎においた統一過程が進展し、それに伴って中央の支配下に入った血縁的共同体が解体されて行くとともに、支配する側の中央豪族の血縁的共同体も内部から解体されて行く。
 さらに、この二次国家の末期には、極東アジア、特に朝鮮半島での激動の影響の下で、仏教の導入により旧来の血縁的共同体に基礎を置いた豪族と思想的にも対抗し、これを衰退ないし駆逐させる蘇我氏のような新興の中央豪族が出現して次の三次国家への下地が作られる。
Ⅱ.5 三次国家
 次に、壬申の乱から平安末までにおいては、天皇統治による古代専制国家であるとともに、形式的な面があるとは言え律令制国家である三次国家が形成される。この三次国家は、組織的に全ての統治権能を持つ、近代の主権国家に近い国家であるが、多分に形式的で、実体的には旧来の変成共同体の遺制をそのまま温存し、その看板だけを塗り替えただけの統治機構であるという面が多分に存在していることも否めない。
 それでも、天皇を主体とする中央政府--中央から任期を持って派遣される国司--旧国造の郡司--旧族長(変成共同体の首長)の里長という統治機関が成立し、公地公民という理念のもとで部民制を廃止し、班田制を曲がりなりにも展開した意味は極めて大きく、まさに血縁的共同体に基礎を置いた統一過程の極限に達したことを意味し、それは同時に血縁的共同体をほぼ解体させたことを意味し、その上に国家機構が成立したのである。
 しかし、この三次国家では、当然のことながら速やかに公地公民制・班田制が崩壊し、荘園が急速に増大して一般化する。天皇の統治権限は理念として、また実質的な支配権限についても余韻を残しながら、荘園制のもとで貴族が支配の実権を握るようになる。また、人民を直接管理する戸籍が土地台帳へと移行することで、名田と名主が発生し、血縁的共同体に取って代わって地縁共同体としての村落共同体が形成される条件が整えられることになる。
 その後、藤原氏独裁の摂政政治の下で、荘園での生産力の増大に伴って名主層が成長し、公領すら荘園化する一方、名主層の分解から武士が発生し、さらに荘園すら名田化して変質する。こうした過程の中で地域の自立と中央の腐敗を来たし、院政期を介して中世社会の下地が出来上がることになる。
Ⅱ.6 四次国家
 次に、鎌倉幕府の成立から戦国末までにおいては、統治権能は、理念的には天皇にあるが、地域の基礎構造は名主層を中核とする村落共同体で、その上に武家の独自政権による実効支配が成立した四次国家が形成される。この四次国家では、地縁的共同体としての自立的な村落共同体が確立し、さらにその統一過程が進行する。鎌倉幕府の段階では、幕府の配下の守護・地頭や、荘園領主である領家・本所の配下の代官・荘官が村落共同体を支配し、別に天皇下の国司が存在する支配構造を呈する。
 次の室町幕府では、村落共同体を支配する在地の領主や武士と主従関係を結んだ封建大領主である守護大名が発生し、この守護大名の上に幕府の乗った統治構造が成立し、村落共同体の統一的支配と村落共同体の解体が進む。さらに、戦国時代になると、戦国大名--奉行--組頭という統治システムによって、戦国大名がその領地内の直轄支配を行い、その領地内においては一元的支配が実現されるまでになる。また、この中世社会の四次国家の段階は、近代にいたるまでの農村風景が成立するとともに、採鉱・冶金・手工業が発達して社会的分業が発達し、都市が発生し、商業が発達した時代である。
Ⅱ.7 五次国家
 次に、安土桃山時代から江戸時代末までにおいては、幕藩体制の五次国家が形成される。この五次国家では、兵農分離が行われ、武士は藩主支配下の家臣団に組み込まれ、将軍と、将軍に対して自立性を有するとともに家臣団による統治機構を持った藩主と、藩主によって一元的に統御される村落支配構造(名主--組頭--百姓代)という統治形態が形成される。この段階では、理念的な統治権限は一応三次国家で定着した天皇に依存していても実質的な統治権限は将軍が持ち、その将軍に対して藩主は完全に従属し支配されているとはいえ、領地内での統治権限が完全に認められている。その結果、藩内の自治共同体としての村落共同体はほぼ解体されて支配組織の一部に組み込まれたものとなり、地縁的共同体は藩単位まで統一化される。また、家長制家族制度や封建身分制が確立し、そのイデオロギーに支えられてこの統治形態が維持される。
Ⅱ.8 六次国家
 次に、明治維新以降現代までにおいては、国家主権を有し、領土内のすべての国民に対して直接的に統治権を行使する六次国家が形成される。この六次国家の成立過程では、五次国家から三次国家へ復帰するという観念が持たれていたが、本質的には統治権限は国民自体にあるという方向性を持ったものである。この六次国家は、完全な私有財産制(所有権制度)と工業化の下での商品生産社会の発展とに基礎を置いた資本制的社会編成に対応して存立したものである。そのため、地縁的共同体=村社会は解体されて、企業体を中核とした組織がその基礎構造となる。絶対的な統治権限を有する中央政府--地方自治--国民という中央集権的な統治機構が形成され、地方自治は、藩の自立性から、単なる行政の末端組織に貶められている。
 その一方で、官僚による中央集中管理の非効率・腐敗に対して地方自治や地縁組織の再生の必要性が確認され、また血縁共同体や地縁共同体が解体され、それに代わって企業体等の多種の機能組織の発生・発展の方向が確認され、また情報化社会の進展により国際社会の重みが益々増大するとともに国際化の進展による国境の無効化の方向が認識され、またNGOなどの非政府組織が国際社会で重要な機能を果たすようになってきている。
 筆者は、このような傾向から具体的な過程や時期については全く不明であり、また歴史的条件が整っていないのに思弁的に具体的な過程を想定することは無意味であるとは言え、長い目で見て大局的には国家に取って代わって地域/
機能・多元/多重の世界連合体が形成される方向にあり、そこでは血縁共同体や地縁共同体に取って代わって諸個人の自由で自発的な連携組織がその基礎構造となるような世界が形成されるようになるものと考えている。