景初三年銘鏡=国産鏡

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   景初三年銘鏡=国産鏡

 ---この文章は、『古代史の海』第11号(1998年3月)に掲載の「景初三年銘三角縁神獣鏡について」の内容を転載したものである。---

 はじめに
 奈良県天理市柳本町の黒塚古墳の石室内から三十三面という大量の三角縁神獣鏡ともう一面の鏡が出土したというニュースが大々的に報じられた。
 マスコミの報道は、「邪馬台国の女王卑弥呼に魏の皇帝から下賜された鏡であるという有力な説がある三角縁神獣鏡」、又は「卑弥呼の鏡」が大和王権の中心部から大量に出土したという点を強調している。即ち、三角縁神獣鏡に関して、必ず「卑弥呼の鏡であるという説の有力な」という枕詞を付けて報道している。
 不特定多数の一般人に対して一言で対象物のイメージを与えるような表現が要求されるマスコミの場合「卑弥呼」の名前を出すのが手っ取り早いという事情から致し方ない面があるとともに、最近は「卑弥呼の鏡」とは断定せずに、それに「という有力な説がある」と付加して他の説があることを示す気づかいも見られるようになった。しかし、実際にはマスコミの性質上そのような気づかいは殆ど無視されて「卑弥呼の鏡」と理解されることになる。
 しかも、これはマスコミの独断専行ではなく、高名な鏡研究者を含めて考古学者の世界でも実際に未だに有力な説であり続けている。なお、「卑弥呼の鏡」は文献に基づく命名であるため、考古学の世界では製作地が魏であるとしていることから、倭において作成されたとする国産鏡に対して魏鏡説と呼ばれている。
 小論は、三角縁神獣鏡は魏鏡であるという説の根拠になっている島根県の神原神社古墳出土の景初三年銘三角縁神獣鏡が国産鏡である可能性が高いことを、極めて単純な事柄に注目して主張するものである。

 三角縁神獣鏡=魏鏡説
 そもそも三角縁神獣鏡は、前期古墳の石室内から副葬品として出土する葬送具である。前期古墳(主として前方後円墳)は、邪馬台国に併行する庄内式土器の時代より一時代後の布留式土器の時代の所謂「初期大和王権」の墓制である。また、三角縁神獣鏡の出土分布は全国にわたっているとともに、畿内での出土量が卓越しており、かつ同じ模型に起源する鋳型で鋳造した同氾鏡が全国的に分布している。これらのことから、三角縁神獣鏡は畿内特に大和を中心とする「初期大和王権」が全国を支配するために配布したことを示しているというように解釈され、「初期大和王権」の全国支配の証拠とされている。
 一方、三角縁神獣鏡には比較的質の良いものと、質の悪い明らかに倣製鏡と見られるものとがあり、質の良いものの中に中国の年号を記したものがあることから、質の良い三角縁神獣鏡は中国鏡であるとされていた。しかも、その年号が景初三年や正始元年などの魏の年号であったことから、「魏志倭人伝」における記事、すなわち景初三年の卑弥呼の朝貢に対して皇帝から下賜されたものの中に銅鏡百枚が含まれていたという記事と結び付けて解釈され、三角縁神獣鏡は魏で作製され、魏の皇帝から卑弥呼に下賜された魏鏡であるとされた。
 さらに、このことと上記のように三角縁神獣鏡が畿内を中心とする出土分布を示すということから、邪馬台国は畿内にあったに違いなく、それと同時に三角縁神獣鏡は前方後円墳に副葬されるとともに前方後円墳の規模からみたヒエラルキーは大和を中心とすることから、邪馬台国と「初期大和王権」を直結して解釈し、卑弥呼の鏡が伝世され、「初期大和王権」の確立に伴って全国的に配布されたものであるというように解釈された。さらに、天皇家は邪馬台国の後裔で、卑弥呼は天照であるなどということまで、まことしやかに述べられることがあった。

 三角縁神獣鏡=国産鏡説
 上記三角縁神獣鏡=魏鏡説に対して、森浩一氏は早くから三角縁神獣鏡が中国では一面も出土していないということを指摘するとともに、三角縁神獣鏡は古墳から出土する古墳時代の鏡であることから、国産鏡説を提起していた。しかし、高名で権威のある学者による上記説明体系に対して多くの考古学者は逆らうことができず、殆ど無視されていた。
 そうした中で中国の考古学者の王仲殊氏が、1981年以降、三角縁神獣鏡は、中国には一面もなく日本では大量に出土すること、模様や形状が中国のどんな鏡とも顕著な差異を有することから、日本で作製された鏡であるとし、さらに「陳氏作鏡」「張氏作鏡」「王氏作鏡」などやその銘文から呉の工匠が日本で作製したものであるという見解を提示するに至ってやっと国産鏡説が市民権を得るようになった。
 魏鏡説の立場からは、三角縁神獣鏡が中国から出土しないのは卑弥呼に下賜するために特鋳されたものであると釈明するとともに、三角縁神獣鏡に類縁のある鏡は江南ではなく華北に存在するということを提示して、呉の工匠による倭での作鏡説を批判している。しかし、特鋳説は魏の洛陽で三角縁神獣鏡が出土していないという事実の前では奇説に近く、また三角縁神獣鏡に類縁のある鏡が中原ではなく華北にあるという点に関しては呉の工匠が公孫氏の領域を経て倭に渡来したという見解は補強しても魏で特鋳して下賜したという説を何ら補強するものではない。
 魏鏡説は、このような問題が顕在しているにも関わらず、卑弥呼が魏に朝貢した年の魏の年号である景初三年銘を持つ三角縁神獣鏡があるということを、最大の積極的な根拠にして今も魏の鏡であると強弁している。したがって、景初三年銘鏡は国産鏡であることが強力に論証された場合には一挙に瓦解するものと考えられる。

 景初三年銘三角縁神獣鏡
 島根県の神原神社古墳から出土した景初三年銘三角縁神獣鏡が、1997年の「古代出雲文化展」で展示され、素人もガラス越しにしろ種々の方向から実見する機会が与えられた。
 景初三年銘三角縁神獣鏡自体に関する研究として、図像配置や銘文の解読、解釈は詳細になされているが、全く不思議なことに鏡面の外区に見られるスリット状の割れ目に注目した考察は管見は今に至るまで知らない。このスリット状の割れ目がどのようにして生じたかは、そのつもりで見れば一目して明らかである。これは、完全な形の鏡が鋳造された後に外から荷重が加わって割れたものではなく、鋳造時の凝固収縮によって生じたものであり、この鏡は鋳造欠陥品であるということである。
 詳しく見てみると、割れ目は数ミリ幅で外区の全幅にわたりかつ外縁で開放された状態で生じている。割れ目の一側は鏡面を維持しているが、他側は鏡背に向けて反り返るようにかなり大きく歪んでいる。また、割れ目が生じている外区の範囲は、内区に比べて格段に肉厚となっている。外縁部の断面形状は斜縁に近い三角形状を呈しており、斜縁神獣鏡と典型的な三角縁神獣鏡との中間的な断面形状となっている。なお、割れ目とは関係ないが、この鏡の紐孔は長方形断面である。
 このような割れ目がどのようにして生じるかを考えてみる。鋳造完了後に荷重が加わることによって、このような肉厚の外区だけに幅のある割れ目を生じることは脆い青銅鏡の場合には考えられない。また、割れ目の部分が短冊状に割れて外れたということも論理的には考えられるが、実際には肉厚のが外区の一部だけが割れて外れるというようなことは起こり得ない。特に、割れ目の他側の歪みは割れに伴って生じるはずがなく、脆い青銅器でこのような割れ方は不可能である。
 この割れ目は、次のようにして生じたものと考えられる。鋳造時に肉厚の薄い内区が速く冷えて先に凝固し、厚肉の外区は後まで流動性をもったままとなるので、凝固収縮は厚肉の外区にしわ寄せされる。因みに、青銅の凝固収縮による収縮率は1~1.5%である。その後、外区が凝固する際に周方向に不均等に凝固することにより、凝固が先に進んだ部分と後になった部分の境界部に凝固収縮による体積減少が集中し、そこに割れ目が生じるとともに、さらに凝固の遅れた割れ目の他側部分が、凝固収縮に伴って鏡の外周部に作用する引張応力によって、肉厚部が突出しかつ凸面鏡の湾曲中心側に引っ張られて歪んだ結果、上記のような割れ目が生じたものと考えられる。
 かくして、景初三年銘三角縁神獣鏡が鋳造時に割れ目を生じた欠陥品であるとすると、魏の皇帝が卑弥呼の朝貢を記念して特別に鋳造し、持ち帰って人々に見せよと言って下賜した鏡であるとすることはできないであろう。魏の皇帝が明らかな欠陥品を記念の品として下賜することは面子にかかわることであり、何よりも他の三角縁神獣鏡とは異なり、冊封関係を樹立した年号を記した特別な紀年銘鏡が欠陥品であることは到底許されないことである。
 そうすると、この景初三年銘鏡は国産鏡でしかあり得ないということになる。従ってまた銘文に魏の年号が記されていても、魏鏡であるとは限らないということが明らかになったと言える。恐らく、景初三年銘鏡は倭で最初に鋳造された三角縁神獣鏡であったのであろう。そのことを記念して使用されていた年号を使って紀年銘鏡としたと考えられる。また、欠陥品が出雲に残っていたということは、出雲で鋳造された可能性が大変高いことを示している。神原神社古墳から出土したのは、最初に鋳造した三角縁神獣鏡であったため、欠陥品であっても記念に保存されていたものが、墓に副葬されたものと考えられる。したがって、神原神社古墳はこの三角縁神獣鏡を鋳造した人、又は鋳造を直接指示した人の墓であると考えるのが素直な見方である。さらに、想像を拡げて言えば、和泉黄金塚古墳出土の景初三年銘画文帯神獣鏡は図像の部分が殆ど同型であるということから、三角縁による大径化の前のモデル鏡であるか、大径化を一旦諦めて慣れた平縁の神獣鏡で景初三年の紀年銘鏡を作製したものと考えられる。
 かくして、以上のように景初三年銘三角縁神獣鏡が国産鏡であれば、その他の中国鏡(魏鏡)とされている三角縁神獣鏡も国産鏡であると見なすことができる。そこで、これらの三角縁神獣鏡は何故創出され、どのような経緯をたどった鏡なのかということ、特に所謂「初期大和王権」との関係が今後解明すべき課題となる。