邪馬台国への行程

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邪馬台国への行程

 ―――この文章は、「「狗奴国=纒向」仮説に向けて」(同人誌『古代大和』第9号、古代大和を考える会(桜井市)、平成7(1995)年4月)の一部(行程に関する部分)の内容を転載したものである。―――

 魏志倭人伝に記載された帯方郡から邪馬台国への行程記事の解釈について考えてみる。狗奴国を畿内、纒向であるというためには、伝聞によった部分の方位について南を東に読み替えるという事と共に邪馬台国までの行程解釈を避けて通ることはできない。
 魏志倭人伝に記載された帯方郡から邪馬台国への行程記事は次の通りである。
① 従郡至倭、循海岸水行、歴韓国乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里
② 度一海千余里至対海国
③ 南渡一海千余里名幹海至一大国
④ 渡一海千余里至末盧国
⑤ 東南陸行五百里到伊都国
⑥ 東南至奴国百里
⑦ 東行至不彌国百里
⑧ 南至投馬国水行二十日
⑨ 南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月・・・(其の余の旁国及び狗奴国の説明)・・・自郡至邪馬台国萬二千余里
 以下、順次説明して行く。
 ①「従郡至倭」の郡が帯方郡であることは言うまでもないであろう。又、倭は行程説明の最後が女王国の邪馬台国であることからも邪馬台国を目的地としていることは明らかであろう。問題は、郡使の出発点となる帯方郡がどこであるかということである。
 これには有力な候補地が二箇所ある。第一候補は黄海道鳳山郡文井面であり、第二候補は漢江下流である。第一候補は、帯方太守張撫夷の名を記した晋代の専室墓が発見され、その南約4kmに漢式遺物が出土する知塔里土城が発見されたことから、この知塔里土城を帯方郡治とするものである。第二候補は、岡田英弘氏の見解によると、漢江が帯水と呼ばれること及び漢代の楽浪郡下の各県の比定において帯方県は漢江の河口に近い後に北漢山と呼ばれるソウルか、漢山と呼ばれた広州のどちらかであると判断されることが根拠となっている。しかし、漢江流域ではそれらしい漢式遺物が少なくとも現在までのところ一切見つかっていないことから近年では支持者は少なくなっていると言ってよい。なお、当初は漢江流域にあったが、韓族の勃興によって鳳山郡に移転されたという見方も提示されている。筆者は上記のような理由から少なくとも魏と倭が交流した時代の帯方郡としては第一候補の方を採用したいと思う。
 次の「循海岸水行」であるが、魏使は帯方郡(黄海道鳳山郡文井面は載寧江中流の支流である瑞興江にある)から瑞興江を遡って、車嶺で滅悪山脈を越えて礼成江に出、これを南に下って開城に附近で海岸に至ったものと考えられる。或いは瑞興江から載寧江を下って海岸に出たかもしれない。海岸に出た後は、海岸に循って(したがって)水行したことに疑問の余地はない。
 次の「歴韓国乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里」であるが、通説は朝鮮半島の西岸に沿って南に向けて水行し、西南端に達すると向きを変え、南岸に沿って東に向けて水行し、倭の北岸に位置する狗邪韓国に到達し、郡からこの狗邪韓国までが七千里であると解されている。しかしながら、古田武彦氏が『邪馬台国はなかった』(1971年)で指摘したように、「乍南乍東」は南行と東行をたちまち小刻みに繰り返すということであり、海岸に沿って南行した後東行すという行程を表現した文章とは到底考えられない。なお、朝鮮半島の西海岸は暗礁が多く、しかも干満差が大きいために危険なルートであり、そのために満潮時に南行し、干潮となる前に海岸で停泊するため東行し、これを繰り返すことによって南に向けて航行するという航法が取られており、「乍南乍東」というのはその状態を表現したものであるという解釈も提案されているが、帯方郡から倭への行程の短い説明の中でそのような航行上の技術的な説明をしているという解釈には無理がある。ましてや、謝銘仁氏の『邪馬台国 中国人はこう読む』に提示されているような、船の揺れ動く「状態」を示しているというような解釈になると完全に理解を越えている。
 次に、「歴韓国」の「歴」とは並んだ点を次々と通るという意味であり、「経」が真っ直ぐ通り抜けることと対比され、かつその止は足を意味し、順序よく次々と歩いて通ることを原義としている。また「韓国」は後で出てくる一大率の権能の説明中における「王遣使・詣京都・帯方郡・諸韓国」における諸韓国と同じ意味であることも明らかであり、それらの諸国は漢江、錦江、洛東江等の河川を遡った朝鮮半島内陸に比定されており、西海岸には諸韓国に比定される地は殆どない。従って、「歴韓国」とは陸行にて諸韓国を歴訪したことを示していると考えられる。
 次に、「到(其北岸)狗邪韓国」の「到」も、曲折があって達することを意味し、「至」が真っ直ぐ達することを意味するのと対比され、水行にて一気に到達するというよりも陸行にて乍南乍東して諸韓国を歴訪しながら狗邪韓国に到達したニュアンスを良く表している。もっとも、「至」と「到」の使用例を収集・分析し、それらの使われ方に差異がないことを「証明」した研究があるが、こういう所で統計的な処理を行うというのは全く無駄な労力であるとしか考えられない。即ち、文章を書く場合にはその時々によって語の持つ意味を峻別して使う場合もあれば、漠然とした使い方をする場合もあり、正にケースバイケースである。要は、語の原義、若しくはニュアンスに上記のような違いがあることを勘案した上で、その文章においてどのような使われているかを総合的に判断すべきことである。ここでは、「歴」、「乍南乍東」、「到」の三つの点が相互に対応することから、やはり「到」の本来持っている正確な意味乃至ニュアンスで用いられていると考ええるのが至当であろう。
 従って、帯方郡から狗邪韓国まで水行にて一気に到達したのではなく、海岸に沿って水行した後、適当な地で上陸して陸行にて乍南乍東しながら諸韓国を歴訪し、狗邪韓国に到達したと解釈するのが最も妥当てあると考えられる。
 このような解釈を行う場合、狗邪韓国から再び船で玄界灘を渡海する必要があるのに何故途中でわざわざ陸行したのかということ、及びどこで上陸してどういう経路で狗邪韓国に到達したかを説明する必要がある。
 海岸に沿って水行した後陸行した理由を考えるについては、魏志倭人伝における行程記事がどの時点の魏使の報告に基づいて書かれたかが重要である。
 魏の帯方郡から倭への遣使は240年と247年の2回あるが、その行程の報告が為されたとすれば、最初の遣使のときであると考えざるを得ず、その文書が倭人伝記載時の資料として残ったものと考えられる。そうすると、245年に帯方太守が戦死する程の重大な馬韓の反乱があり、韓国の治安が良くなかったため危険はあっても朝鮮半島の西海岸に沿って水行したという理由は成り立たないことになる。
 ともあれ、楽浪や帯方地域と倭との間の通商路は、数百年以前の楽浪郡や真番郡が設置されたBC108年以来出来ていたものと考えられ、その通商路は岡田英弘氏が『倭国』で述べられているように、漢江を南に下り、鳥嶺を越えて洛東江に入り、これを下るルートが主要通商路であったことに間違いないと考えられる。さらに、204年には公孫康が楽浪の南に帯方郡を置き、韓・倭との通商路を独占的に支配する体制を整えていることから、魏がその楽浪と帯方を取る238年までの約35年間にわたって公孫氏の支配の下で通商が頻繁に行われていたことは明らかであり、その通商路はその経路上の土地に行けば日常的なものとして確立していたものと思われる。にもかかわらず、魏使はその通商路を通らずに海岸に沿って水行した後諸韓国を陸行したのは、やはり古田武彦氏が述べているように、帯方郡支配下の各県が配置されている漢江流域は敢えて通らず、大所帯の魏使一行の通行に便利な海岸沿いを水行し、韓国の領域は魏使一行が行列して通行することによって諸韓国に対して示威を行ったものとすると良く理解できる。それは同時に暗礁の多い危険な海岸沿いの水行をしなくて良いという利点もあった。
 240年の時点で諸韓国に対して魏使の行列を見せて示威を行う意義は大変大きかったものと考えられる。即ち、魏は2年前の238年に公孫氏を滅ぼすとともにその別軍が楽浪・帯方を取ったばかりであり、諸韓国にはそれまでの関係に対する親近感が強く残っていたものと思われるので、それに対して魏の威光を見せつけることは非常に効果的であろう。特に、公孫氏は呉との関係が深く、公孫氏を介して呉との通商が頻繁に行われていたとすれば、公孫氏の無きあと直接呉との通商関係が開かれては一大事であり、それに対しては強く牽制しておく必要からもその意義は大きいものと考えられる。
 これに関連してさらに言えば、238年に魏の別軍が楽浪・帯方を取ったということは、その直後の238年乃至239年に郡の直接支配下の各県に対しても軍の部隊が派遣され、当然各県も魏軍の直接支配下に置かれたものと考えられ、恐らく県が配置されていた漢江流域は比較的簡単に軍事的な直接支配が及んだものと考えられる。が、それ以外の諸韓国に対しては直接支配を及ぼす術はなかったものと考えられる。それは正に上記245年の馬韓の反乱によって示されている。類推の域を出るものではないが、そのために魏は郡・県の軍事支配を確立すると、公孫氏と関係のあった諸韓国や倭に対して軍事的な部隊を伴った使者を派遣し、魏に対する服属と朝貢を要求した可能性が高いものと考えられ、その要求に直ちに答えたのが、倭の先進地域である玄界灘沿岸に対して後背地に出来た新興の邪馬台国であり、魏の主導の下で239年に遣使が行われたのではないかと考えている。恐らく、邪馬台国は少なくとも対外的な通商関係では遅れていたために公孫氏との関係も殆どなく、正にその点で魏が異常に邪馬台国に力を入れたものと考えられる。邪馬台国の最初の貢献が、男生口4人、女生口6人、班布2匹2丈という極めて貧弱なものであることがこのことを物語っている。公孫氏との通商を継続的に行っていた国であれば、このような貧弱な貢献になる筈がないと思われるからであり、それに対する魏の歓待ぶりもまた異常な程であり、そこに呉の影を見ることができる。即ち、公孫氏と通商を行っていた倭とは、奴国の後裔乃至狗奴国又はその前身であり、公孫氏を介して呉と通商関係を持っていたため、魏は狗奴国と呉の結び付きを牽制するために邪馬台国を強く後押しすることにしたものと考えると理解し易い。
 かなり、脇道にそれてしまったが再び行程に戻ると、魏使の上陸地点とその後の行路としては、牙山湾に入って上陸し、天安、大田を通り、秋風嶺で小白山脈を越えて洛東江に出、それを下るコースが「乍南乍東」に良く合うと思われる。
 こうして、魏使は帯方郡から海岸に沿って水行し、天安付近で上陸して諸韓国を歴訪して狗邪韓国に到達したものと考えられ、その間七千余里であったといい、その場合1里は90m程度の短里となる。
 次に、②~④の「度一海千余里至対海国」、「南渡一海千余里名幹海至一大国」、「渡一海千余里至末盧国」について見る。
 狗邪韓国から「度一海千余里」で至る「対海国」が対馬であることに異論はなく、まず間違いないであろう。次に「幹海」と呼ばれる一海を渡って至る「一大国」も壱岐であることに間違いないであろう。壱岐では、「一大国」に相当すると思われる原の辻遺跡が大規模に発掘され、考古学的にもまず間違いないものと検証されかつその「一大国」がどのような実体のものであったかも解明されることが期待されている。尚、対馬から壱岐に至る方向が「南」とされているが、正しくはほぼ南南東であって正確に南の方向ではない。しかし、方位を正確に述べる必要がある文脈ではなく、また正確でないと行程に間違いを生じるというようなものでもないので、基本的に問題のない方位表現であるとすべきであろう。
 この「一大国」から一海を渡って至る「末盧国」について、通説は唐津湾の松浦川近傍(以下、単に松浦と記す)に比定されている。しかし、この「末盧国」に関しては種々の異説が提起されている。特に、壱岐から松浦までの距離が90kmに対してはるかに短く、対馬-壱岐間に比してもかなり短いことから、壱岐から90km程度の範囲で、例えば伊万里市等の候補地が種々提起されている。しかしながら、松浦には弥生前期から中期にかけて宇木汲田遺跡が展開し、弥生後期には多くの副葬品を持った甕棺墓のある桜馬場遺跡が存在し、さらに若干後の時代になるかとは思われるが,盤龍鏡が出土した久里双水山古墳が存在することから「国」を構成し得る地域と認められるのに対して、壱岐から略90km以内の範囲で松浦に対抗できるような「国」に相当する遺跡は存在せず、従って少なくとも現時点で考古学的に知られている遺跡に基づく限り、距離は多少短くても、また以降の行程の「伊都国」との関係(方位等に多少の難点がある)から言っても、やはり松浦に比定すればよいと思う。
 次に、⑤以下の陸行に移ることになる。
 まず、⑤の「東南陸行五百里到伊都国」について見てみると、字義そのものは末盧国から東南方向に五百里陸行することにより伊都国に到達するということであり、大変明瞭である。ところが、松浦からそのまま東南方向に略45km向かうと背振山脈を越えて有明海に臨む小城郡に到達するが、「伊都国」と見なせるような遺跡は存在せず、やはり通説の如く「伊都国」は糸島半島基部の前原町に比定せざるをえないであろう。そうすると、松浦に対して前原ほぼ東の方向に位置するので、方位を略45度だけ反時計方向に回転させた位置となる。このように45度傾いた方位は当然のことながら一貫性を持っている筈であるから、伝聞による「投馬国」と「狗奴国」に関する部分を除いて松浦に上陸してから邪馬台国に到達するまで維持する必要があるとともに、陸路に移った時点でこのように方位が変更された理由を説明する必要があろう。多分倭人伝記載時に、伝聞による部分の東を南とした90度の方位のずれによって何らかの不都合が認識され、その間の差を緩やかにして不都合を解消するべく、陸路部分での方位を45度時計方向に回転させて記載したものと思われる。これについては、後で再度説明したいと思う。
 次に、⑥の「東南至奴国百里」について見てみる。伊都国までの行程記事が、方位+動作+距離+至(又は到)+国名という基本形で行程が記載されているのに対して、以下の奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国については方位+至+国名+距離という基本形でその国の位置が記されており、榎氏が提起されたように、伊都国を中心にしてどの方位のどれ位の距離にどのような国があるかを説明していると見ることができる。ここでは、「伊都国」から東南方向に百里で「奴国」に至るということであり、実際には上記45度の方位のずれからほぼ東の方向に9kmで「奴国」に至るということである。この奴国としては、福岡市の早良地域における吉武・高木遺跡、吉武・樋渡遺跡が弥生前期から後期にわたって存在し、邪馬台国時代には宮ノ前1号墳に代表される勢力の存在が確認されている地域が考えられる。弥生中期における倭の奴国の中心はその東の春日市の須玖岡本遺跡に代表される地域に存在したが、倭国大乱後に中心が早良地域に移動するとともに広い範囲に拡散したものと考えられる。二万戸という戸数から見てかなり広い範囲が奴国とされていることが分かる。
 次に、⑦の「東行至不彌国百里」についてみる。ここでは、方位が単純に「東」でなく「東行」と記されており、その「行」は何らかの意図に基づくサインであると考えられるが、取り敢えず無視して解釈すると、「伊都国」から東北の方向に略9kmで「不彌国」に至るということである。この不彌国は略千戸であり、その方位と距離から博多湾沿岸の港に臨む国であると思われる。すなわち、伊都国の倭国内海航路用の外港であると思われ、長垂山箱式石棺墓に代表される今宿地域の勢力の可能性が高いと思われる。
 次に、⑧の「南至投馬国水行二十日」についてみる。この「投馬国」への距離は水行日数で記されていることから伝聞によったものと考えられ、博多湾岸の港に臨む不彌国から南の方向に舟で20日間かかる距離の位置に戸数略五万戸の投馬国という大きな国があるということを聞き、不彌国に関連して記したものと考えられる。ただし、方位の南は実際には東と理解すべきものであり、出雲から丹後にかけての国のことを記したものと考えられる。なお、投馬国の本当の国名は丹波国であったものと考えている。即ち、丹波はtwaniwaであり、それがtwambaに縮まって発音され、それが中国人には、tou-mba=投馬と聞こえたものと考えられる。更に言えば、出雲は上を意味するwiを付けてwi-twambaと呼ばれ、wi-toumaからizumoになったものと思われ、播磨も下を意味するariが付けられてari-twambaと呼ばれ、aritumaからharimaやarima
になったものと思われる。
 ここにおいて、投馬国への水行行程は港のある不彌国を起点とするものであるが、行程記事の全体構成は伊都国を基点にした方位+至+国名という形態であるために伊都国を基点にしたものとの誤解や混乱を起こす可能性がある。そこで、投馬国への行程の基点が不彌国であることを示すために、上記の⑦の如く不彌国の説明において、単なる「東」でなく「東行」というように記して部分的な基点の移動を表現したものと理解される。また、これによって、単純に伊都国を基点と考えた場合に「南至投馬国」と「南至邪馬台国」とが重複して
しまうという矛盾の解消が図られているものと考えられる。
 次に、⑨の「南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月・・・(其の余の旁国及び狗奴国の説明)・・・自郡至邪馬台国萬二千余里」について見る。この邪馬台国は最終的に到達すべき目的の国であるが、伊都国から南の方向、実際には南東の方向にあることを示している。また、この邪馬台国の伊都国からの距離は、郡から女王国までの距離が萬二千余里とされているので、郡から狗邪韓国までの七千余里、玄界灘の三千里、末盧国から伊都国までの五百里を差し引くと略千五百里余りとなり、伊都国から南東略150km程度の位置に邪馬台国があったことになる。従って、筑後川流域一帯に略7万戸の邪馬台国が存在したことになる。なお、筆者はその中心は御井付近にあり、卑弥呼の墓は祇園山古墳であると考えている。ここで、「南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月」における「水行十日陸行一月」というのは、古田武彦氏が述べているように、郡から女王国までの総括的な行程日数を表示したものであると理解するのが、萬二千余里という距離から見ても妥当であると考えられる。水行十日というのは、朝鮮半島に上陸するまでの西海岸に沿った水行日数と玄界灘を渡るための日数とすると妥当な数字であり、陸行一月というのも、諸韓国の歴訪行程と、末盧国から伊都国を経て邪馬台国に至る略二千里余りの陸行日数として妥当なものと考えられる。なお、「自郡至邪馬台国萬二千余里」という説明は旁国及び狗奴国の説明の後に付け足しのように挿入されているが、これは邪馬台国の位置の説明の際に、郡から目的地である邪馬台国までの総行程日数水行十日陸行一月を先に入れてしまった結果距離の表現が宙に浮いてしまったのが原因と考えられ、距離の説明を外したままにすると不明瞭になる恐れが強いと考えたためにどうしても挿入する必要があったものと思われ、その結果文章の流れの中で挿入できる箇所は現在の位置しかなかったものとすると了解がつくと思う。逆に言うと、そこまでしてでも距離の説明は欠かすことができないという判断が働いていたのであり、萬二千里という距離はそれだけ重大な意味を持つものと考えられる。このことは「南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月」の「水行十日陸行一月」が上記のように郡から邪馬台国までの総括行程を表現したという解釈が妥当であることを示していると思う。また、邪馬台国を筑後川の中流域に比定すると、女王国より以北の国についてはその戸数や道里を略載できるという記載も問題なく理解することができる。
 次に、上記説明において陸路部分での方位として、報告による実際の方位と伝聞によると思われる90度ずれた方位をそのままにすると、何らかの不都合があったために報告の方の方位を時計方向に45度ずらせて記載したものと見られるが、その理由を考えておく。即ち、報告では伊都国から東の方向百里に奴国があり、東北の方向百里に不彌国があり、さらに南東千五百里に邪馬台国があるという位置関係にあるものとされていたが、不彌国から南の方向に投馬国に至る海路が存在するということになると、伊都国から邪馬台国への陸路ルートと不彌国から投馬国への海路が交差してしまい、明らかに地形的に理解不可能な事態に陥ることになる。そこで、報告の陸路部分の方位を時計方向に略45度回転させた方位が正しいものとすることで、伝聞によった90度ずれた方位との間に生じる矛盾を解消したものと考えられる。即ち、伊都国から東に百里で海岸の不彌国に至り、そこから南の方向に水行二十日の位置に投馬国があり、また伊都国から南東百里の位置に奴国があり、南千五百里の位置に邪馬台国があるという地理感を持つことによって納得したのではないかと想像される。想像に過ぎないと言われればそれまでであるが、矛盾の少ない合理的な解釈であると考えている。
 かくして、「魏志倭人伝」の行程記事によれば、邪馬台国は筑後川中流域にあるものとして理解することができ、投馬国や狗奴国は東の方向にあるものとして矛盾なく理解することができる。投馬国は上述の如く、出雲から丹後の地域の国であると考えてほぼ間違いないであろう。
 一方、狗奴国については、遠絶にして詳らかにすることができないその余の旁国として順次列挙された国々の内、最後に挙げられた女王国の境界が尽きる所の奴国のさらにその南(実際には東)に存在することが記されている。従って、最後の奴国がどこであるかによって狗奴国の位置が大体どの辺であるか見当を付けることができる。ここでは、想像の域を大きく出ないけれども結論的に指摘しておくと、奴国はやはり後漢時代の奴国と何らかの関係があるためにその国名が付けられていると考えられることから、弥生中期後半に、絵図遺跡で直線的でシャープな輪郭の洗練された美しさを持つ仁伍式と呼ばれる淡灰色の土器を出土し、また弥生後期に門前池東方遺跡で楽浪土器の筒杯と類似した土器を出土し、また弥生晩期に楯築の木槨墓などが存在する吉備地方がこの奴国に相当するものと考えられ、従ってまた吉備の影響を受けて突然大和東南部に築かれた纒向遺跡が、新しく大きい奴国という意味での狗奴国として、最適な候補地であると思う。
 最後に、先に簡単に述べて採用した行程の放射式解釈について、連続式解釈と対比しながらもう少し詳しく説明しておく。この放射式解釈と連続式解釈は行程解釈に関して方位の問題とともに最も大きな違いをもたらすものであり、大きく意見の分かれるところである。
 もともとの解釈は連続式であった。即ち、素朴に魏志倭人伝に記載順序通りに、末盧国に上陸後、末盧国-伊都国-奴国-不彌国-投馬国-邪馬台国と直線的に行程をたどることによって邪馬台国に到達するという解釈である。このような解釈に対して、榎一男氏は、1947年の「魏志倭人伝の里程記事について」(『学芸』第33号)において、伊都国までの行程記事は「方位-距離-地名」と表示されているのに対して伊都国以降は「方位-地名-距離」という表示に変わっていることから、奴国、不彌国、そこから投馬国及び邪馬台国は伊都国から放射状に方位と距離が表示されているという画期的な見解を示した。榎説は、古田武彦氏が要約するところによると、魏使は伊都国までしか行かず、後の行程は伝聞によったために後の国は伊都国を中心とした放射状に記録され、水行十日陸行一月はその間に「あるいは」を入れて理解すべきであり、伊都国から邪馬台国までは郡から邪馬台国までの万二千里から郡から伊都国までの万五百里を引いた千五百里であり、歩行一日五十里(唐代の「六典」による)から陸行一月が得られるという説である。なお、魏使は伊都国に留まって邪馬台国には行かず、この伊都国での伝聞によったために、伊都国から後の国ついては伊都国を中心にして四至的に各国の位置が表示されているという見解自体はそれよりも先に豊田伊三美氏(1922年)や安藤正直氏によって提起されていた。多分、説明の体系性と学閥的な背景に拠り、放射状解釈=榎説ということになったと思われる。
 この榎説に対する連続式解釈側からの反論は、中国文献における放射状の位置表示は首都などを中心に東西南北の四至のどの距離にどのような土地があるかを説明するものであり、それに対してこの行程記事では、東南、東、南、南というような東と南の間の限られた方位に対して異常な順序で説明しており、中国文献において通常の放射状解釈を行う表示とはまったく異質であり、従ってまた、「距離-地名」と「地名-距離」のように単に順序が異なるだけで伊都国までは連続式に解釈し、以降は放射式に解釈すべきだという理由は成り立たず、むしろ同じ表現形式を重ねるという悪文を避けたものと解すべきであるということにある。
 このような連続式解釈側からの反論に対して、私見からは次のように再反論することができる。まず連続式解釈側の反論においては伊都国以前の「距離-地名」の表示と、伊都国以後の「地名-距離」の表示という対比に矮小化して判断しているために、それから対した違いとは認められず、どちらでもよいように理解されるが、本当の表示は先に述べたように伊都国以前は「方位+動作+距離+至(又は到)+国名」という基本形で行程が記載されているのに対して、伊都国以後は「方位+至+国名+距離」という基本形の構文でその国の位置が表示されており、その構文上の違いは明白であり、後者の構文は前者の移動動作を含む構文と対比すると、基点から各方位に向けて放射状に各国の位置を説明する構文であることが容易に了解できるであろう。また、榎説のように、伊都国以降の各国はすべて伊都国を中心とする方位と距離でその位置が説明されていると考えると、東南、東、南、南の順序で各方位の国を説明しているというのは確かに異常であり、放射状説明とは異質のように見えることになる。しかしながら、上記私見のように、末盧国上陸以後の陸上での方位は実際には、従って訂正前の一次資料では、表示された方位に対して45度反時計方向に回転させたものであるとすると、伊都国には西方から入り、この伊都国を中心にして東に奴国があり、また北は糸島半島の山地であるが、東北に内海航路用外港の不彌国があり、また南は脊振山脈の山地であるが、東南に目的地である邪馬台国があるということになり、伊都国を中心にして四至に準じて各国の位置が表示されていたことが分かる。又、水行にて行くべき投馬国は伊都国の内海航路用外港の不彌国を基準にして表示され、かつ伝聞による方位の南は東であるので、不彌国から東の方向に水行二十日の位置にあるということになる。このような放射式解釈によれば、すべてが最も合理的に解釈でき、従って放射式解釈こそが本来の解釈であると確信できるのである。
 また、豊田・安藤・榎のいずれの放射状解釈においても魏使は伊都国に留まって邪馬台国には行かなかったという解釈と結びついている。即ち、伊都国以降の国が伊都国を中心として放射状に記録されたのは、魏使は伊都国に留まって倭人からの伝聞によって記録した結果であるとされている。しかし、魏の皇帝の詔書及び金印紫綬を含む下賜品を倭女王の卑弥呼に拝仮する使命を持った魏使が伊都国に留まって邪馬台国に行かなかったということは到底考えられないことである。そうだとすれば、何故放射状に記録されたのかということになるが、伊都国は後漢時代の伊都国(委奴国)連合のときから玄界灘沿岸の先進地域の中心的な国であり、邪馬台国の時代になっても通商外交の中心的な機能を保持したためであると考えられる。しかし、だからと言って魏使が邪馬台国に行かなかった理由とはならない。また、「一大卒」が置かれ、「郡使往来常所駐」となったのも、伊都国がこのような国であったからであろう。さらに言えば、「一大卒」とは松本清張氏がいうように魏派遣の軍司令官、詳しくは魏の帯方郡支配下の倭方面軍の将帥である可能性が高いものと考えられる。参考までに、「墨子巻之十五、迎敵祠第六十八」には、守城の法において城上の中央の総大将に対して四方に「大卒」という方面の将帥を置くことが記されている(「古代大和を考える会」の免田造地氏の教示による)。
 以上のように、行程説明における構文上の違いが明らかにされ、さらにそれによって合理的に解釈することができることが明確になった後では、連続式解釈というのは、表現にそういう解釈が為される原因も多少存在しているとは言え、あまりに粗雑な読みによる解釈であることが分かると思う。