纒向ロマン 第三の物語

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  「はじめ国家」ロマン 纒向
  第三の物語


 第三の物語は、邪馬台国は北部九州、特に筑後平野に成立した国で、北部九州の諸国が相争った後邪馬台国の女王卑弥呼の元で邪馬台国連合を形成し、狗奴国と争った後、その邪馬台国の後継勢力が大和の纒向の地に東遷してきて初期ヤマト王権を樹立したという物語で、ある意味第一の物語に対しても第二の物語に対しても正反対の物語です。
 この物語は、安本美典氏が提起されているもので、「記紀」記載の神武東征を現実の歴史に結び付けようとする物語です。卑弥呼の次の台与の時代に北九州から出雲(アメノホヒの勢力)や大和(ニギハヤヒの勢力)や南九州(ニニギの勢力)などに大きく展開し、その後南九州のニニギの子孫の神武が大和に東征し、以降「記紀」記載通りの大和朝廷の歴史が展開されるとするものです。
 そのため、この物語では纒向遺跡の発生は少なくとも卑弥呼の死後であり、箸墓古墳は崇神の叔母であるヤマトトトヒモモソヒメの墓であるとすることから早くとも3世紀末ないし寧ろ4世紀の古墳であるということになり、最近の古墳時代の開始を早めようとする考古学の傾向に対して激しく抵抗しています。恐らくはその適否がこの物語の存在意義を決することになり、それ以外内容は「記紀」の記述通りであるということであまり説明することはありません。
 ところで、晩年の森浩一氏が、『倭人伝を読みなおす』(ちくま新書、2010年)で、上の物語と同様の物語を提起しています。すなわち、卑弥呼の「女王国」は九州北部、狗奴国は中部九州にあってその境界は白川と緑川の地域にあり、互いに相争っていたが、魏から派遣された張政の倭国対策は、狗奴国と女王国を一つにまとめて安定した倭国とすることにあり、卑弥呼が死んだ後狗奴国の勢力が北部九州に及んで狗奴国王が倭王になると、国々が相誅殺する状態となってしまい、そのため張政の画策によって台与を立てることで国中が定まるようにし、その上で狗奴国の男王が九州を支配する一方、台与が元の女王国の主力を率いて東方の地であるヤマト(奈良盆地東南部)へ遷ることを計画し、実行されたものとしています。それは、卑弥呼が死んだ後、台与が立って266年にヤマトから晋に遣使するまでの間で、250年代のことであるとしています。
 著名な考古学者が晩年にどうしてこのような見解を提起することになったのか不可解なことです。台与が250年代に東遷して纒向遺跡の形成を始め、石塚古墳以降の古墳群を築造し、その後箸墓古墳を築造したとすれば、纒向遺跡の形成過程の年代幅及び箸墓古墳の築造年代に係る現在の考古学的年代観とは全く相容れないものだからです。