一次国家の発生・展開

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  一次国家の発生・展開過程

----この文章は、『古代史の海』第40号(2005年6月)に掲載した同題名の文章の内容を再録したものです。なお、その後の知見に基づいて西殿塚古墳に関連する部分の一部に補正を加えています。-----

Ⅰ はじめに

 本稿は「日本における国家の発生・展開過程」で示した「一次国家」の発生・展開過程をより具体的に説明することを主旨とする。本稿での一次国家とは、地域社会の最上層構造が、弥生農業共同体を越えて王の支配権能が認められるような段階となっている一方で、二次国家における大王による列島規模での支配関係は認められないような段階の社会構造を意味している。弥生後期から古墳時代前期の間は、弥生農業共同体を越えた地域社会と、その統御主体としての王が出現して一次国家が形成され、弥生小国家群や古墳時代前期の各地の王をいだく国家群が形成される。本稿は、このような一次国家が弥生農業共同体の社会からどのようにして発生し、二次国家の発生に向けてどのように展開して行ったかを説明しようとするものである。
 一般に、時代変化の動因として、内的要請と外的影響の両者があることは間違いないことである。具体的には、生産力の発展による生産・分配関係の変化、重要な必需物資を獲得する流通・供給ルートの変化、戦争・武力による集団間関係の再編及び政治集団の形成や変化などが考えられているが、時代と地域毎にそれぞれの強弱と関わり合い方に偏差がある。
 日本列島における一次国家の形成過程にあたっては、生産力の発展に基づく内的要請に関して条件が満たされつつあったとしても、それ自体が変化の契機となったというよりも、直接的には流通・供給ルートの変化及びそれに伴う武力等による集団間関係の再編によるものと考えられる。すなわち、生産力が格段に上昇して生産・分配関係に大きな変化を来した状況が認められ、その結果として時代変化が必然化したというよりも、極東アジア世界の変動に連動したものと認められる。以下、詳しく見て行くことにする。

Ⅱ 弥生農業共同体の変質
 弥生中期後葉から末に至ると、先進主導地域である北部九州の弥生農業共同体は、首長が共同体規制をある程度超越して王化した変成共同体に変質する。
 即ち、恐らくはBC190年の衛氏朝鮮の成立に対応した弥生前期末以来、朝鮮半島からの急速な文化流入によって石器や青銅器などの流通システムが発展し、共同体間の交通関係が進展して行くという状況となる。そうした中で、BC108年に新たに朝鮮半島に楽浪郡が設置された後は、『漢書』地理志に、「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」とあるように、楽浪郡との交流が盛んに行われたものと考えられる。また、王莽の時代になると、地方に対する撫恤政策がとられ、楽浪郡では同時代の鏡とともに百年も古い前漢の宮室で使用されていた御用漆器がもたらされ、石岩里194号や貞悟洞1号に副葬されるような状況が生まれ、また『漢書』王莽伝に「東夷王大海度奉国珍」と記されているように、恐らく倭国の北部九州との交流も緊密に行われるようになり、この交流による文化発展がⅣ様式の展開に対応すると考えられる。その後後漢が成立した後、王調の乱の後に、楽浪郡が中央に直結した支配下に一時的に置かれると、その楽浪郡との交流によりAD57年には後漢側の権威を高めるという意向もあって光武帝に対して委奴(いと)国王が朝貢して「漢委奴国王」の金印を受領する冊封関係を持つまでに至る。
 この過程において、交流の代表者として必然的に共同体の首長の権威が高まるとともに、共同体や複数の共同体が地域を越えた広い地域を代表することで、共同体規制をあまり受けないで振る舞う首長、王化した首長が登場する。共同体を体現した首長として副葬品に差異は生じていても基本的に共同墓地内に埋葬されていた段階から、三雲南小路1号墓や須玖岡本D地点墓に見られるように、周囲には他の埋葬施設が設けられない一定の隔絶した墓域を形成するとともに上記中国王朝の王都に直接朝貢した時に入手したとしか考えられないような、多量の王族級しか保持できない高品質で大型の前漢鏡や王の葬具として下賜されるガラス璧や金銅製四葉座金具を副葬した王墓が形成されるようになる。これらの王墓は、普通の弥生墓では顕著な外部施設を持たないのに対して、三雲南小路1号墓の場合31m×24mの墳丘の存在が推定され、須玖岡本D地点墓の場合も同程度の墳丘墓が想定されている。
 しかし、その一方でこれらの厚葬墓は累代的に続かないことから、共同体規制の弱体化はそれ程進行していず、これらの厚葬墓に葬られた首長の権力基盤である地域の統合の成熟度も未熟であったとみられる(溝口孝司『古墳時代像を見直す』青木書店2000年)。
 この見解を提起している溝口孝司氏によれば、北部九州では中期後葉には、墓地が、一般成員の集塊状墓地(例えば、福岡県筑紫野市道場山遺跡第1地点甕棺墓地)と、単位地域の首長層が葬られる区画墓(区画墓Ⅱ)(例えば、福岡県甘木市栗山遺跡C群墓域)と、上記厚葬墓の三類型に分かれて行くとされている。
 一般成員の墓地である集塊状墓地のありさまは、首長の権力を支える基礎単位(各共同体)の一般成員は財や権利の相続、継承の単位として代々継承して行くような安定性を持つに至っていず、基礎単位(各共同体)の内部における首長の位置が一般成員たちにとって未だ「所与」とはなっていないことを示している。また、幾つかの基礎単位(共同体)が共存する地域(単位地域)の内部における基礎単位同士の関係は、上下関係にはなかったものと想定されている。
 区画墓は、単位地域における中心的な基礎単位(共同体)に、その単位地域における共通の祖先を始祖とする擬制的な首長家系を葬るものとして設定され、単位地域内の各基礎単位の首長が、各基礎単位の団結の象徴としてこの区画墓に葬られたものと考えられる。なお、私見では、玄界灘沿岸地域に対して背振山系を越えた有明海沿岸の、佐賀県神崎郡の吉野ケ里遺跡における弥生中期の40m×30mの北墳丘墓についても、規模は大きいがその性格はこの種の区画墓であると考えられる。このように単位地域内の各共同体の首長が、共同体を飛び出して首長層を葬るために設定された区画墓に葬られるようになったということは、既に共同体が変化を来し始めていることを示している。
 また、厚葬墓は、楽浪郡との交流による威信財の入手とその贈与により単位地域内及び複数の単位地域内の間で優位に立ち、上記のような意味で王化した首長が特別に葬られたものと解される。ただし、共同体規制がかなり消失し乃至は大きく弱化して王を戴くような社会構造となったうえで立った王ではなく、楽浪郡との独占的交流に依存したものであるため、それが無くなれば簡単に崩壊するようなものであったと考えられる。
 このように先進地の北部九州においては、中期末葉には、基本的には共同体規制を残しながらも、その弱体化と共同体規制を超越した首長(王)を前駆形態として登場させていた。
 また、日本海沿岸の丹波(丹後)では、奈具岡遺跡において、その水晶工房で生産残滓や鉄製の生産工具が多量に出土するが、製品は見つからずかつ日本列島での出土も僅かであり、その一方で朝鮮半島北部の楽浪漢墓や東南部の良洞里遺跡の1世紀代の墓に水晶玉が副葬されていることが知られている。これらのことから、弥生中期後葉の1世紀には丹後と朝鮮半島の韓や楽浪の間でも広域の流通圏が形成されていたことが分かる。
 そして、このような交流関係を取り仕切るために王化しつつある共同体首長が登場していたものと考えられる。例えば、中期後半の日吉ヶ丘遺跡では33m×17~22mの方形貼石墓の中央部に単一の埋葬施設が設けられ、その後の奈具墳丘墓群では、一般の墓地とは別に20m×10mの長方形の大型台状墓が3基形成され、その墳頂部に2~7基の埋葬施設が設けられている。また、中期末の寺岡遺跡SX56は、33m×20mの台状貼石墓で、1基の大型の埋葬施設と小型の2基の埋葬施設が設けられている。これらの墓は、王化しつつある首長の存在と、その墓制がどのようなものであるかを示している。
 一方、河内や大和では、池上曽根遺跡や唐古鍵遺跡に見られるように、大形建物が建造された大型の環濠集落から成る拠点集落と、その周囲の集落群が認められ、中核となる共同体を中心として複数の共同体が連合した社会が形成されている状況が認められる。しかし、墓制としては方形周溝墓群が認められるだけであり、隔絶した大形墓は大和では発見されず、河内では加美遺跡のY1号墓のような大規模方形周溝墓が発掘されているが、その性格は上記区画墓(Ⅱ)であると認められる。また、大形の拠点集落であり、弥生都市などとする人もいる池上曽根遺跡において、その石器組成は他の集落のものと基本的に変わらないということ(秋山浩三氏の指摘)から、弥生農業共同体自体の質的な変化は生じていないと見られる。伊勢湾沿岸でも、朝日遺跡の様相から同様の状況であったことが伺われる。
 また、吉備の中期後半は集落も墓地も資料が不足していて、例えば四辻遺跡に見られるように、木棺墓によって構成され、墳丘が存在する可能性のある墓域が認められるのみであり、少なくとも共同体を超越したような社会構造になっていないことは明らかである。
 その一方で、瀬戸内から近畿にわたり一部伊勢湾や北陸に広がって画一的な凹線文様を施した土器を共通とする凹線文の世界が形成され、また吉備では中期末の整美な仁伍式土器の時代に門前池遺跡で楽浪土器を模倣した筒杯が出土し、大和の唐古鍵遺跡では中国風の楼閣の絵を描いた大形壺が出土し、朝鮮半島東南部の勒島では北部九州の弥生中期の土器が多量に出土しているという状況があり、中期後葉には朝鮮半島を経由する北部九州を頂点とした広域の流通システムが形成され、人的交流を含めた交流が盛んであったことが分かる。
 このような流通が順調に発展拡大して行けば、当然社会構造の変化を来し、共同体を内部から変革させるものと考えられる。
 ところが、以上のような中期後葉の社会は、大和やその他の後進地域のように、ある程度の変化はあっても劇的な変化を受けずに継続する地域もあるが、列島の多くの地域では一旦途絶し、特に瀬戸内から畿内地域においては高地性集落の形成を介して弥生後期社会に向けて社会状況が大きく変化することになる。また、北部九州においては、中期社会の支配的勢力であった玄界灘沿岸の勢力と筑後平野や佐賀平野の勢力との境界部に、両勢力がそれぞれ武器形祭器を埋納しているという事実があり、社会変動に伴う両勢力間での抗争と相互の力関係の再編が行われたものと考えられる。
 このように先進地域で弥生農業共同体の変成共同体化が進行した状況の中で、そのままさらに発展することで共同体の枠を越えた王の登場がもたらされるのではなく、旧来の統治システムが壊滅的な変化を受けた後、新たな統治システムと文化が登場して一次国家の形成に向けて急速な展開を遂げるようになる。
 このような弥生中期の世界と後期の世界の間の変化は、例えば土器様相の変化からも確認される。弥生土器の変遷を概観すると、第Ⅰ様式から第Ⅳ様式に向けて器種の増加を伴いつつ連続的な発展が認められ、特に第Ⅳ様式に入って器種が増加し、中期の大型で精美な土器群が成立していたが、第Ⅴ様式で大きく断絶し、器種構成が変化するとともに大型器種が激減し、粗製品となっている。その後、第Ⅵ様式を経て庄内様式では薄型軽量化し、布留様式では精製品が現れ、器種も増加して行くという変遷を辿るが、第Ⅰ様式から第Ⅳ様式と第Ⅴ様式以降との間で土器の様相が大きく変化していることは明らかである。
 また、弥生後期前葉には、多くの地方で遺跡・遺物が激減することも知られていることである。例えば、北部九州において、後期前葉に朝鮮半島からの土器流入が激減しており、交流関係が衰退していることが分かる。また、それと相関するように大型甕棺墓制が急速に衰退しており、墓制の明確な断絶が認められる。
 以上のように弥生中期の高文化が一旦急激に衰退した後に、中期後葉に展開した第1次の高地性集落とは別の、新たな高地性集落が、北部九州の玄界灘沿岸と筑後平野の間及び瀬戸内から近畿地方にかけて一層広く展開する中で、様相の異なる弥生後期の社会が展開されることになる。
 次には、弥生後期社会の発展・展開過程について説明することになるが、それに先立って以降の説明の前提となる弥生中・後期の歴年代観について説明しておくことにする。
 現在、年輪年代測定法や炭素14年代測定法などの成果に後押しされて既に通説化している説として、前漢鏡などの前漢時代の副葬品が出土する弥生中期後葉を、紀元前に編年する年代観が一般化している。しかし、弥生後期前葉には楽浪系土器及び三韓系土器が対馬、壱岐と糸島を除いて出土せず、糸島でも楽浪系土器の出土数が大きく減少しているという事実がある。これに基づけば、後漢王朝との密度の高い交流の中で朝貢を行ったAD57年を、交流が衰退して途絶状態に近い状況になっている弥生後期前葉とすることになって不合理である。なお、弥生中期後葉の甕棺墓における前漢代の副葬品は、王莽代の楽浪漢墓における前漢代の副葬品と同様に、AD57年の朝貢時に光武帝が古いけれども王族級の鏡を葬具とともに下賜したものと考えれば矛盾はないし、そうでなければこのような高級品が蛮夷の王に下賜されないと考えられる。
 次に、朝鮮半島東南部の各遺跡の消長から考えてみる。AD100年前後とAD300年前後において様相が大きく変化する。AD75~100年位までは、主な遺跡として昌原の茶戸里と慶山の林堂洞があり、特にBC50年からAD50年の間はこれらの遺跡が多いに栄えていた。これは、楽浪郡との交流関係によるものであることは、茶戸里1号墓の鉄器や筆などの出土品などからも明らかである。一方、これらの茶戸里や林堂洞の衰退と、2世紀に入ってこれらの遺跡に代わって良洞里、大成洞の前期、福泉洞の前期、下岱、中山里、玉城里などの遺跡が新たに出現してくることと、この時期から墓制が木棺墓から木槨墓に変わることから、楽浪郡による半島南部との直接的な交流が1世紀中に衰退してしまい、韓の勢力や韓に流出した中国人を介した交流に移行したことが想定される。
 このような朝鮮半島南部における劇的な変化は、楽浪郡が、後漢の光武帝による王調の乱平定後の一時期を経てその後速やかに衰退し、韓や倭との通商権益を喪失したことを示しており、これが倭における弥生中期と弥生後期の時代変化に対応している見るのが至当であろう。実際、弥生後期初頭の佐田谷墳墓群の佐田谷1号墳丘墓の2号埋葬施設において、2世紀の第2四半期の良洞里7号墳や茶戸里64号墳に対応した様相の木槨墓が登場している。
 なお、楯築墳丘墓の木槨は、2世紀の第3四半期の良洞里162号墓に対応している。また、3世紀になると、良洞里がやや縮小し、前期の大成洞や福泉洞が衰退するのと入れ替わるように、釜山の老圃洞が出現して盛行するようになるが、これは公孫氏による楽浪郡の再興及び帯方郡の設置によるものと考えられ、この編年観が大過のないことを示している。
 このように、朝鮮半島及び倭を含む極東地域の全体的な歴史の流れからは、弥生中期は1世紀代の後葉までであり、1世紀末以降に弥生後期に入るという歴年代観が、至当であると思われる。

Ⅲ 一次国家の第一段階(弥生後期)
 Ⅲ.1 概説
 上記のように弥生中期後葉には、楽浪郡との密度の高い交流による文化的・経済的な接触によって、一部地域、特に北部九州では、社会構造の変化が加速されて首長が部分的に王化した変成共同体が発生していた。また、列島全般の社会構造の基底において、広域交流を行うために共同体を越えて地域全体を統一的に運営し、意志決定を行う必要が生じていたために、弥生農業共同体(部族社会)は既に有効な統治形態として限界に達し、一層の社会発展に対して桎梏となっていた。しかし、共同体規制の強さから、自ら次の段階に飛躍するまでには至っていなかった。そうした中で、楽浪郡が衰退してその交流関係が衰退若しくは断絶したことによって弥生中期社会は崩壊せしめられ、弥生後期の社会が形成されることになる。
 朝鮮半島では、楽浪郡が衰退する一方で、韓・濊に中国人が流出して韓・濊が強盛になった。そのような状況は、中国史書では桓・霊の間の状況とされているが、上述の茶戸里遺跡の盛衰に見られるように、それは突然生じたものではなく、光武帝の死後から徐々に進展していったものと考えられる。この楽浪郡の衰退による直接的な交流の衰退若しくは途絶が北部九州に与えた影響は極めて大きかったようで、中期社会で主導的であった北部九州の勢力は衰退してしまい、その一方で韓・濊の勢力と弥生中期から交流していた日本海沿岸の勢力が、朝鮮半島との交流の利権を握るようになり、鉄器を含む必需物資の主要な流入ルートを確保するようになる。それに伴って、新たな先進地となった日本海沿岸にまず共同体規制を超越した王が登場し、その影響が各地に波及し、弥生社会の構造に変動をもたらして行く。勿論、北部九州は、弥生中期の楽浪郡との直接ルートの独占的な地位を失ったとはいえ、須玖遺跡などの遺跡群が弥生のテクノポリスとして繁栄する状況から見て、楽浪郡及び韓・濊との交流ルートを全く失ってしまった訳ではなく、弥生後期後半になるとその実績と実力から再び楽浪郡や韓・濊の勢力との交流の主要な地位を占めたものと考えられる。
 Ⅲ.2 日本海沿岸
 まず、北部九州に取って代わって先進地域となって王の登場を見た日本海沿岸の後期社会の展開について見て行くことにする。手掛かりとして、四隅突出墓の展開と王墓の変遷を見てみる。四隅突出墓は、日本海から江の川を遡った三次盆地に、弥生中期後葉に最初に出現した陣山1~5号墓及び宗祐池西1号墓を嚆矢とする。なお、同時期に丹波(丹後)においては、日吉ヶ丘遺跡に33m×17~22mの大型の方形貼石墓が出現している。四隅突出墓は、その後三次盆地で継続して築造されるとともに、中期末から後期初頭にかけて西・東伯耆に展開し、その後、後期中葉には丹波・因幡の方形台状墓を墓制とし擬凹線文土器を使用する勢力と干渉し合い、東伯耆と越前・加賀・越中とに分かれて展開し、後期後葉には築造地域が出雲・西伯耆と北陸とに分かれて行き、後期後葉から後期末葉にかけては出雲と北陸に完全に限定されるとともに、それらの間の丹波と因幡の地域の勢力が日本海沿岸の交易権を掌握する一大勢力となる。
 丹波においては、上記日吉ヶ丘遺跡に続いて中期末に奈具遺跡が形成されるような地域社会の状況を前提として、後期初頭には、最初の王墓である三坂神社墳墓群の3号墓第10主体部が形成される。この3号墓第10主体部は、長さ5.7m、幅4.3m、深さ1.8mの巨大な墓壙内に、素環頭鉄刀、鉄鏃、ヤリガンナ、ガラス玉・水晶玉類が副葬され、朱が塗布されたものである。また、この第10主体部の周囲を取り巻くように複数の埋葬が行われた埋葬構造を取っている。この種の厚葬墓は、後期初頭社会において列島内で他に見られず、新しい王が登場したことを示している。また、この第10主体部を王墓とする三坂神社・左坂墳墓群においては、茶戸里47・48号墓から出土した鉄鏃と極めて類似する無茎鉄鏃が出土していることから、茶戸里例は時期が紀元前後で三坂神社・左坂墳墓群よりかなり古いけれども、茶戸里遺跡を担っていた勢力が丹波との強い交流を持ったことによって丹波に王が発生したことを傍証している。また、この弥生後期において、鉄器を主体とする副葬品が主流となる傾向は、良洞里7号墓などに見られるように、朝鮮半島において楽浪が衰退し、韓・濊が強勢になった時期の墓制と共通性を持っている。
 弥生後期における日本海沿岸の他の地域においては、鳥取県の大山町と淀江町にまたがる拠点的高地性集落の妻木晩田遺跡やその墓地遺跡である洞ノ原遺跡が特に注目される。しかし、洞ノ原遺跡の状況と丹波の王墓とを比較すると、日本海沿岸の後期社会を支配する王がいる中心地域というよりも、丹波の王によって朝鮮半島に対する前線近くに設置された軍事拠点的な拠点集落であると考えられる。また、鉄素材が大量に出土した青谷町の上寺地遺跡はこの地域における一つの通商・経済の拠点集落であったものと考えられる。ただ、それでも丹波と出雲や北陸との墓制の相違と両者の相互関係については不明な点が多い。
 さらに、AD107年の倭国王帥匠の後漢王朝への朝貢には、160人の生口(奴隷)が貢がれているが、これは弥生農業共同体を超えた王権の成立を前提にしている。すなわち、共同体の規制の強い間は、その構成員の生殺与奪は共同体全体の専権事項であり、共同体はその構成員としての資格剥奪を簡単に許容するものではないため、このような大量の生口を提供することは不可能あるいはあり得ないことである。このような多数の生口は王が誕生する際の戦争捕虜によって確保されたものと考えられる。因みに、親魏倭王が最初に献じたのは、男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈に過ぎない。かくして、多数の生口を献上した倭国王帥匠は、正に三坂神社墳墓群の3号墓第10部の主であると考えられる。
 日本海沿岸のその後の王の系譜は、後期前葉には東伯耆に移動し、四隅突出墓の宮内雲山1号墓の主が王となり、台状墓の勢力と四隅突出墓の勢力の緊密な連合が成立したものと見られる。しかし、次の弥生後期中葉には、王墓は、東隣の因幡の方形台状墓である西桂見墳墓に移動し、それと対応するのか、四隅突出墓が北陸の小羽山30号墓に現れる。その後、弥生後期後葉には、四隅突出墓は東西出雲から西伯耆の西部と北陸に分断して盛行し、それらの間の西伯耆・東伯耆・因幡・丹波が方形台状墓の勢力によって支配されるとともに、王の系譜は再び丹波に戻り、大風呂南墳丘墓の主が王となる。この後期後葉には、西出雲の西谷3号墓の主が、吉備の楯築墳丘墓の主と連合を組むことにより、丹波の王に対抗して四隅突出墓を墓制とする王として初めて自立したものと考えられる。しかし、吉備との連合がその後消滅したためか、出雲の王は継続せず、後期末葉には、丹波の赤坂今井墳丘墓の主だけが王として、日本海沿岸の全体を支配する王となったものと見られる。
 しかし、丹波の勢力は、後期末葉を最盛期として急激に衰退することになり、日本海沿岸の全体にわたる統一的な王は現れなくなる。これは、正に公孫氏が楽浪郡を再興し、帯方郡を設置して朝鮮半島に対する支配を強化したことにより、それまで丹波が交流していた韓・濊との交流ルートが衰退してしまったことに対応している。
 なお、以上の丹波の勢力、特に弥生後期末の赤坂今井墳丘墓の王の時代の丹波国は、三国志魏書倭人条に記載の「投馬国」であると見られる。その理由は、「丹波」が「tamba」ないし「twamba」と発音されていたものと想定すると、中国人には「mba」は「ma」と聞き取られることになるため、「tou-ma」=「投馬」と認識されたものと想定することができることによる。
 Ⅲ.3 北部九州
 一方、北部九州の様子を見てみると、朝鮮半島に対する門戸に位置する末蘆国においては、後期初頭に中期までの宇木汲田とは立地を異にして、王墓としての桜馬場甕棺墓が形成された後、厚葬墓は現れない。しかし、邪馬台国時代の庄内期においても、三国志魏書倭人条の記載から伊都と朝鮮半島との交流の門戸としての機能は継続していたものと考えられる。
 糸島半島や福岡平野においては、三雲南小路遺跡や須玖岡本D地点遺跡の後、後期初頭は断絶する。また、全般的な傾向として、中期初頭以来継続使用されていた多くの墓域が、後期前半期に断絶し、その後後期後半に再び現れる墓地は、三雲寺口遺跡に見られるように、首長を安定して輩出する単位集団のための墓域(特定集団墓=区画墓Ⅲ)が成立し、その一方で共同体規制の存続を示す群集墓は殆ど見られなくなる。その上で、井原鑓溝の甕棺を用いた最後の厚葬墓が現れ、その後は大量の大型倣製鏡が出土した庄内期(邪馬台国時代)の平原遺跡の木棺墓まで王墓と見られる厚葬墓は見られない。
 佐賀平野の吉野ケ里においては、中期の北墳丘墓の後、大型墳丘墓は見当たらず、それに代わって北内郭と南内郭が構築され、王墓は発見されていない。その一方で、鳥栖市の千塔山遺跡では、溝で囲まれた倉庫を有する居住集団が発生するとともにそれに付随する墓域には大型の箱式石棺墓が設けられ、共同体を超越したリーダー層が所与として存在するような社会関係の成立が認められる。これらのことから共同体の首長とは質の異なる佐賀平野を纏めるような王とそれと連携するリーダー層の登場が想定される。
 このように北部九州では、後期前葉に一時的に全般的な衰退傾向を示した後、後期後葉になると王の登場の基盤を整備しつつ復興する傾向を示すが、継続的に強力な王を登場させるには至らず、相互に相争う状況が続いたものと考えられ、北部九州全体の纏まりは邪馬台国時代の登場を待つことになる。
 Ⅲ.4 播磨
 播磨においては、弥生中期から後期にかけて、新宮宮内遺跡に見られるように直径20mに達する大形の円形墳丘墓(円形墳丘墓の当初の分布域は播磨と備讃瀬戸である)が現れ、後期前葉には、西部の千種川流域の原田中に、墳丘斜面に川原石を貼付け、周囲に周濠を形成するとともに、その一部に陸橋と突出部を設けた円形墳丘墓から成り、その墳丘頂面で大型の器台と壺と高坏を用いた葬送祭祀を行った王墓が築かれ、王の登場が想定される。なお、その後、突出部付きの円形墳で、主体部が石槨で、内向花文鏡が副葬された西条52号墳や、双方に突出部を有する方形墳である養久山5号墳などが築造される庄内期を介して前方後円墳が築造されるようになる。
 Ⅲ.5 吉備
 吉備においては、中期後葉に旭川流域に南方遺跡群などの大規模な集落が形成されるが、中期末には小規模な集落に分解して後期に継続する一方、中期末から後期になると足守川流域に津寺遺跡、矢部南向遺跡、上東遺跡、高塚遺跡などの集落が、特に後期後半には矢部南向遺跡に大規模な集落が形成される。また、後期には、足守川流域の津寺・矢部南向遺跡の墓地は黒住山遺跡に、備前の集落の墓地はみそのお遺跡に、高梁川流域の集落の墓地は伊予部山遺跡に認められ、丘陵上の眺望の良い場所に新たな墓域が形成され、また埋葬姿勢が伸展葬に変化して木棺が大型化する。筆者は、不確かではあるが、このような中期末から後期にかけての変化は、上記した北部九州の状況に対応して北部九州の奴国の勢力が新たな展開地を求めて吉備の地に進出してきた可能性を想定している。中期末の仁伍式の精美な土器や楽浪系の筒杯の出土がこのことを示唆している。
 その後、後期後葉になって全長80mに達する大型の双方中円墳で、主体部が木槨・木棺で、墳頂部で特殊器台と特殊壺を用いた葬送祭祀が行われた楯築墳丘墓が足守川流域に築造され、吉備を代表する王が突如として登場する。恐らくは、上記矢部南向遺跡がその集落遺跡である。また、楯築墳丘墓に見られる多彩な模様を持った最初の立坂式特殊器台は、大きさこそ小さいが播磨の原田中で出現したものの影響下に登場し、それを巨大に発展させたものであることは疑いようがなく、楯築墳丘墓に葬られた王は、原田中の主と関係のある勢力が移動してきて先の奴国勢力と連携したものと考えられ、また出雲において楯築墳丘墓と時期を同じくして突如として登場した王墓である西谷3号墳が特殊器台を持つということから、楯築の王は出雲の王とも連携し、出雲の王を介して朝鮮半島との交流によってその勢力を確保したものと考えられる。
 次に、吉備におけるその後の展開を特殊器台の形態変化と分布域を参照して見て行く。楯築墳丘墓で出現した立坂型特殊器台は、備中の黒宮大塚、鋳物師谷2号、雲山鳥打1号、立坂1号、及び備前の都月坂2号など、主に備中地域を分布域とするとともに、種々の墳丘形態と主体部の構造を有する墳墓の祭祀に用いられている。これにより、備中地域に、楯築墳丘墓を盟主の王墓とし、その周辺に一群の小規模の王墓が散在する様相が再現される。次に現れた横走弧帯文で飾られた向木見型特殊器台が、鯉喰神社墳丘墓で出土しており、規模が縮小しているが楯築に後続する王墓であると認められる。向木見型特殊器台は、分布域が備後、・備中・備前・美作の吉備の全体に広がっており、盟主王の支配力が低下する一方で、その勢力が吉備全体に拡散したことが認められる。
 その後、庄内期には、吉備の王墓は断絶してしまう。その間、播磨に前述の西条52号墓が築造され、また後述の畿内の大和に纒向型前方後円墳の王墓が登場する。
 次の宮山型特殊器台は、主として庄内期末から布留初頭に大和の箸中山(箸墓)、西殿塚、中山大塚、弁天塚などの古墳で出土し、吉備では備中の宮山と矢藤治山の古墳に出土するのみで、出土地域の中心が大和に移動したことは明白である。次の都月型円筒埴輪は、上記箸中山、西殿塚、中山大塚を含む大和や畿内の古墳、及び播磨の権現山51号、吉備では備中から備前に地域を異ならせて都月坂1号、中山茶臼山、浦間茶臼山などの古墳で出土している。
 以上のことから、吉備では弥生後期後葉に、王が登場したが、極東アジアの情勢変化によって衰退し、後述の如く一部が河内に移動し、この河内を介して大和で新たな勢力を構築したものと想定することができる。
 Ⅲ.6 四国東北部
 四国東北部においては、後期初頭に、例えば三谷通谷遺跡(A地点)に見られるように、平野を見下ろしかつ背後に目立つ山丘を控える地点に墓地が選定されるようになり、さらに後期後葉になると、径10m強、高さ2mの略円形墳丘の周囲に角礫を配した奥墳墓群の10号墓や11号墓のような特定人物即ち王の墓が出現し、その後塊石を積み上げて構築した略円形墳丘の一端に通路状の突出部を付した萩原1号墓や、鶴尾神社4号墳のように王墓が継続して形成される。
 Ⅲ.7 畿内
 畿内においては、代表例として河内について見てみると、中期以来の亀井・恩地・田井中・瓜生堂・若江北・鬼虎川などの集落遺跡が後期初めまで継続するが、その多くが後期後半に途絶して、野崎・岩滝山・高尾山遺跡などの高地性集落が形成される。また、河内の周辺地域においても、安満遺跡は古曽部芝谷遺跡に、曽根池上遺跡は観音寺遺跡に、石川流域の壷井・貴志遺跡は寛弘寺遺跡に転移する。その後、河内においては、吉備の土器群が多量出土する中田遺跡群が形成される。この変化は、吉備から移動してきた勢力を主流とした狗奴国の形成に向けての展開が開始されたことを示唆している。また、河内における弥生後期の墓制は方形周溝墓群が認められるだけで、隔絶した王墓は認められない。
 一方、大和の後期社会は、青銅器の鋳造工場を持つに至った唐古鍵遺跡を頂点の拠点集落として、その他の拠点集落やそれぞれの周囲の集落が連携したした状態で、旧来の弥生農業共同体が安定して継続されており、墓制も方形周溝墓群が認められるだけであり、本格的な王の登場は見られない、ある意味遅れた地域であった。
 Ⅲ.8 東海
 東海においては、中期末から後期初頭が墳丘墓の画期となっている。第1に形態の多様化・墓域の流動化が発生する。第2に集落内の共同体墓から独立隔絶した墳丘墓が形成されるようになる。例えば、朝日遺跡における超大型墓が墓域から姿を消し、瑞龍寺山山頂墓のような王墓が築かれるようになる。第3に木棺墓が明確化し、副葬品や供献土器が見られるようになって、死んだ王に対する葬送儀礼が確立し、王の登場が確認される。
 Ⅲ.9 小結
 以上のように、弥生後期には日本海沿岸の丹波における王の登場を端緒として、列島各地域に弥生農業共同体の首長でなく、共同体規制を超えた王が登場してくる。また、弥生後期には地域毎に特色のある土器形式が発生し、一旦地域毎にばらばらな状況が生じるということは、列島全体で均質な共同体群を形成していた各共同体が壊滅し、各地域毎の纏まりが生じたことの反映であり、地域毎に共同体を超越した王が登場し、王の支配による地域の纏まりを生じたことを示している。以上の状況がもしも安定して継続していたならば、丹波の王が徐々にかつ確実に勢力を広げて行ったかもしれないが、歴史の現実は全く異なった動きを示すことになった。

Ⅳ 一次国家の第二段階(庄内期)
 一次国家の第二段階は、ほぼ三世紀の庄内式土器の時代(以下、庄内期と称す)に対応し、190年の公孫氏による楽浪郡の再興と帯方郡の設置をきっかけにして登場した段階である。朝鮮半島南東部においては、先述のように老圃洞遺跡や玉城里遺跡が新たに展開・発展する一方で、福泉洞遺跡が一時的に衰退することに見られるように、公孫氏による楽浪郡の再興と帯方郡の設置に対応して勢力関係に異変が生じており、それに対応して列島内においても勢力関係に大きな影響を与え、変動を来したものと考えられる。例えば、丹波の王墓は赤坂今井墳丘墓を最後にして後続しなくなっており、文化や物資の流通経路が大きく変動したことを示している。こうして、日本海沿岸勢力が衰退する一方で、瀬戸内を通した畿内勢力の隆盛がもたらされたことが第二段階の展開となって現れたのである。このことは、例えばこの時期から瀬戸内西端に位置する豊前地域の郷屋遺跡や高槻遺跡で、老圃洞6・7号墓から出土している鉄鏃と類似する鉄鏃の副葬が始まっていること、また庄内期の始めには博多湾沿岸の東端地域にも畿内のⅤ様式系の土器が搬入されていることから、公孫氏勢力と畿内勢力との交流が豊前と瀬戸内を介して行われたことを考古学的な傍証をもって認めることができる。
 第二段階の特徴は、王墓が、弥生後期の墳丘墓から吉備の楯築墳丘墓の影響のもとで纒向型前方後円(方)墳が発生するとともに、三国時代の呉との交流があった公孫氏から道教思想が導入され、弥生後期の第一段階では鉄器と玉が主体であった副葬品に画文帯神獣鏡を代表とする鏡が含まれるようになった点に認められる。尚、弥生後期においても、後漢鏡の副葬は一部で認められるが、神仙思想に基づく神獣鏡を含まず、大陸との交流でしか得られない威信財を保有しているということで、王の威光を示すために副葬されたものであろう。公孫氏と交流していた勢力は、画文帯神獣鏡の分布状況から現在の近畿地方を中心とする地域であり、中河内から大和の纒向遺跡に統治機構(墓地だけという説もある)を移動させた勢力、筆者の考えでは狗奴国である。
 すなわち、中河内では東郷中田遺跡群がこの時期に急拡大するとともに、吉備系土器が大量に出土し、東郷遺跡では吉備の向木見型の特殊器台が出土し、吉備(奴国)の勢力が河内に移動・展開し、大きい(狗)奴国である狗奴国を形成したものと推定することができる。さらに、瀬戸内の東端に直接臨む中河内の狗奴国が、丘陵を隔てて東に奥まった位置にあって防御的に有利な地域であり、かつ東海地域との交流や、さらには山城や近江を介して丹波・北陸などの日本海沿岸との交流にも好適な地域である大和東南部の纒向遺跡に政治的中枢を新たに移動させたものと考えられる。
 このことは、次の考古学的知見から支持されるものである。第1に、纒向遺跡の最初期の纒向型前方後円墳である石塚古墳から吉備由来の弧帯文円板が出土していることから、端緒において吉備が主導的であったことが分かる。
 第2に、纒向遺跡の特徴とされる多量の外来系土器に関して、前葉においては東海系の土器の比率が高い(東海、吉備、北陸・山陰、西部瀬戸内、近江の順)ことや、石塚古墳に後続するホケノ山古墳においては、東海地域の強い影響が認められることから、初期には吉備の影響の上に東海の影響が強く働いたことが分かる。すなわち、ホケノ山古墳の墳頂部に配列されていた壺は、東海の西上免古墳の周濠から出土した土器と極めて近いものであり、また墳丘築造後に掘り込まれた埋葬施設にはパレスタイル壺が供献されている。なお、ホケノ山古墳の築造時期は、パレスタイル壺とともに供献されていた西部瀬戸内系の大型壺の口縁部の形態が、庄内期の後葉に下るものではなく、庄内期後葉の東田大塚出土の西部瀬戸内系の大型壺と比べて明らかにかなり古く遡るものであることからも庄内期の前葉の築造であると考えられる。
 第3に、その後、纒向遺跡の外来系土器は山陰や北陸の増加が大きく、また河内・近江・関東・播磨なども増加し、ほぼ列島規模の各地から多量の外来系土器が搬入されることから、箸中山古墳の築造とも関連して他地域との強い交流関係が成立したことが分かる。
 このように狗奴国の政治拠点である纒向遺跡においては、墳長が90m級の王墓として、まず主に吉備の影響のもとに、後円部直径に対して前方部長が略半分の長さの纒向型前方後円墳である石塚古墳が築造され、次に継続して東海の影響を強く複合させたホケノ山古墳や、北部九州の博多遺跡出土の羽口と同様の蒲鉾形の羽口片を出土した勝山古墳が築造され、その後矢塚古墳が築造された後、布留0式期になって箸中山古墳や東田大塚古墳が築造されたものと考えられる。
 一方、北部九州においては、前代からの半島との広域交流の中枢としての権威を維持している糸島半島の伊都国や青銅器・鉄器などの最先端の生産を行うテクノポリスとしての生産拠点である福岡平野の奴国などの玄界灘沿岸の諸国と、それと長年相争っていた邪馬台国や吉野ケ里遺跡の国などの筑後平野と佐賀平野に跨って展開している諸国とが、公孫氏により再興された楽浪郡や帯方郡との交流により発展してきた新興勢力の狗奴国に対抗する必要性から互いに連合し、邪馬台国連合を形成するに至ったものと考えられる。このことは、北部九州の中枢部における土器相が庄内期中は在地系土器が主流であることに現れている。
 このような状況において、庄内期(第二段階)の半ばに公孫氏は魏によって亡ぼされてしまう。そして、楽浪郡及び帯方郡を支配下に入れた魏はそれまで公孫氏が主として交流していた勢力ではなく、北部九州の邪馬台国連合と緊密に交流し、239年には卑弥呼を親魏倭王として邪馬台国を後押しし、公孫氏の影響が懸念される狗奴国に対抗させ、倭国に対する干渉を行ったのである。
 邪馬台国連合と狗奴国連合の争いは、魏の後押しがあったにも関わらず、邪馬台国連合の劣勢は覆うべくもなく、卑弥呼は247年に塞曹縁史の張政から告諭を受け、その後死すことになる。
 ここで、卑弥呼の墓は、祇園山古墳と見るのが最も至当であると思われる。祇園山古墳は、筑後平野の西半を一望の下に見渡すことができる、平地との比高約10mの独立気味の低台地上に築造されたもので、径若しくは幅が50~60m程度の墳丘とも見なし得る(周縁部の調査が行われていないので詳細不明)ような低小な台地上に、一辺23~24m、高さが築造時に略6mと、弥生墓には見られない高さを有する楽浪漢墓に類似する方墳が築かれ、その墳頂の一辺10mの平坦面に大型の箱式石棺から成る単一の主体部が設けられたもので、方墳の周囲に、多様な埋葬施設(陪葬墓)が設けられ、かつその一つの甕棺墓(K1)から画文帯神獣鏡の破鏡が出土している。また、その甕棺は方墳築造後に埋葬されたものであることが確認されており、かつ甕棺編年では最後の段階のものである。以上のことから言えるのは、箱式石棺でかつ高い墳丘の方墳であることから、土着性が強くかつしかもその一方で楽浪の墓制の影響を受けていること、K1甕棺は庄内期に編年するのが最も妥当でありかつ方墳はそれを下らないので、庄内期中頃の築造である、などの条件を満たす被葬者として、卑弥呼とするのが妥当である。
 卑弥呼が死んだ邪馬台国では、男王を立てたが国中服さずに相誅殺し、宗女壱与を立てるというような事態であった。その後、邪馬台国は255~265年の間に使者を何度も洛陽に送っているが、事態は変わらなかった。邪馬台国は、265年に晋朝が開かれると266年に使者を送って祝賀の意を表したが、恐らく全く相手にされず、その後倭国と中国王朝との交流は413年まで断絶することになる。このことは、邪馬台国は266年に晋朝に見放されたため、その後間もなく狗奴国との争いに敗れて崩壊し、中国王朝とは無縁な狗奴国とその後の初期大和王権が列島内で支配的な勢力となったことを示している。元々、卑弥呼が立つことで連合がやっと成立し、卑弥呼が死ぬと相誅殺するような体制しかとれなかった邪馬台国連合が戦いに勝てる訳がなかったと思われる。
 また、北部九州の邪馬台国連合が敗れたことは、纒向型前方後円墳である津古生掛古墳が要衝地である福岡平野と筑後平野を結ぶ隘路に築造され、那珂八幡古墳が奴国の中枢部に築造され、また吉野ケ里遺跡に東海系の前方後方墳が築造されたことによって、またその後庄内・布留式土器がこれらの地域の中枢部に展開したことから考古学的にも実証されている。
 一方、狗奴国においては、上記のように邪馬台国連合の成立に対抗して東海との連合を図り、さらに交流相手の公孫氏を滅ぼした魏が邪馬台国連合を後押しした後には、一層の危機感をもって広域の交流・連合を指向したものと考えられる。特に、日本海沿岸を介して帯方郡に直接支配されない朝鮮半島との交易ルートを確保するため、一時代前には先進地で、楽浪・帯方郡に直接支配されない朝鮮半島との交流ルートを持っている山陰勢力との連合を強く指向したものと考えられる。このことは、上記のように纒向遺跡に搬入された外来系土器が庄内期の後半になると、山陰や北陸の増加が大きくなり、また島根半島の草田講武遺跡で、庄内系土器と半島系土器がセットで出土することに認められる。この山陰勢力との連携の結果、庄内式土器と山陰系土器とが複合された布留式土器が発生し、狗奴国が、邪馬台国の崩壊後、所謂初期大和王権に飛躍するとともに、前方後円墳祭祀が創造されるに至ったものと考えられる。
 また、狗奴国は、魏朝の干渉に対する警戒感から東方に退避拠点を確保するため関東まで展開したようで、千葉県に纒向型前方後円墳の神門4号墳、神門3号墳が築造され、また連合関係にある東海の前方後方墳も同じ千葉県に、神門と近接して高部30号墳が、引き続いて高部32号墳が築造されている。また、東海の勢力は、その後も継続してS字甕などの東海系土器とともに東方に向けて大きく拡散している。
 なお、纒向型前方後円墳は、狗奴国の墓制として、吉備の楯築墳丘墓の影響下で成立したもので、その短い前方部は大型で高い円墳を形成するために周囲に掘られた周濠を横断して円墳の墳頂部に至るスロープ状の通路として成立したものである。

Ⅴ 一次国家の第三段階(布留期)
 第三段階は、魏・晋朝に対する警戒心から狗奴国を中心として各地の勢力が連携したことを契機として成立した初期大和王権の時代であり、布留式土器が成立し、箸中山古墳の築造を端緒として、北條芳隆氏の言う第2群の前方後円(方)墳(所謂「定型化」した前方後円墳に対応)が成立した前期古墳時代の段階である。
 布留期の第2群の前方後円墳は、第1群の前方後円墳(纒向型前方後円墳)に対比して、王権継承儀礼の場として前方部が発達して成立したものである。すなわち、埋葬施設のある後円部だけでなく、後円部と前方部での儀礼が、王の権能が発生する淵源と観念され、その儀礼によって王の権能が承認されたのである。また、各地の王が、上記現実的な連携を下敷きにして、新たに創出された前方後円墳での儀礼に自らの王権の存立根拠を求めたことによって、前方後円墳が列島全体に速やかに分布するに至ったものである。
 ここで、前方後円墳とそこでの祭祀が今までどのように理解されていたか、それにどのような問題があるかについて見た上で、筆者の見解を提示することにする。
 最も一般的で古い前方後円墳の見方は、巨大前方後円墳が大和に存在することと、「記紀」の記述とを直接結び付けて理解し、巨大前方後円墳を「記紀」記載の天皇陵に比定し、前期古墳時代にはすでに大和朝廷或いはそれに直結する前身的な政体(それを中国文献に出て来る邪馬台国に結び付ける見解が多い)が列島を統一支配する王権として成立しており、その大和王権が地方の王に対して前方後円墳の築造を許認可して身分制的秩序をコントロールしていたというものである。しかし、大型古墳の規模や副葬品の多寡に関して中央(大和)と地方で較差性が認められる以外、飛鳥時代のように王都らしき遺構や地方を統一的に支配する機構を支える文字資料など、支配関係を示唆する資料が全く検出されない前期古墳時代に列島規模で統一的に一元支配する王権など存在し得ないことは自明のことである。
 こうした中で、前方後円墳祭祀についてその本質規定を行ったのは近藤義郎氏であり、その説は現在も通説的な位置を占めている。それは、前方後円墳における首長埋葬祭祀の場は、首長の死に当たって新首長が部族祖霊に対して働きかけて首長霊を継承する場であり、その前方後円墳祭祀を執行することにより、同族関係(部族的一体感)を確認するというものである。そして、同じ前方後円墳祭祀を採用したもの同士は同族関係にあるものと擬制的に想念され、したがって前方後円墳の分布、すなわち前方後円墳祭祀の広がりは、擬制的同族関係を取り結んでいる範囲の広がりを示していると理解するものである。
 このように前方後円墳を首長霊継承儀礼の場と見る見解に関して、近年でも寺沢薫氏が同様の見解を示している。また、筆者もごく最近まで、「擬制的」の意味を広く理解することでこの見解を採用していた。
 しかるに、広瀬和雄氏がこの首長霊継承儀礼説に対して異論を提起した。すなわち、前方後円墳祭祀における大掛かりな「遺骸」の密封構造、豊富な副葬品の存在は、首長霊の継承という観念と関連がなく、首長霊の継承の前提である筈の霊肉の分離の観念が認められない。また、豊富な副葬品は首長霊の継承との関連がなく、霊威を継承したとすれば、抜け殻に対してこのような過大な埋葬設備と副葬を行うことの意味が理解できないなど、実際の前方後円墳祭祀の内容からは霊威の継承・移植というモチーフを復元することができないので、祖霊継承の場ではないということを指摘する。
 そして、前方後円墳祭祀とは、王の「遺骸」を密封し副葬品を格納して「遺骸」を保護・顕彰することで、亡き首長がカミとなって再生し、共同体の再生産を侵害するものに対して共同体を守護するということを期待し、現首長と死んでカミとなった首長により共同体の再生産が保護されることを願ったものであるとする。また、前方後円墳の広域分布は、広汎に結ばれた首長同士の結合がこのような前方後円墳祭祀の共同幻想に支えられた祭祀共同体であったことを反映しているとする。
 さらに、突き進めて、大和の政治勢力は、この前方後円墳祭祀を提供する「前方後円墳祭祀再分配システム」の掌握を通じて、各地の王を取り込んだ「祭祀共同体」を運営し続け、政治秩序を形成したとしている。更には、この大和の首長を盟主とする首長層の「支配共同体」は、領域、軍事権、外交権、イデオロギー的共通性(前方後円墳祭祀)を持っていることで国家であり、前方後円墳国家が成立していたとする。
 この広瀬和雄氏の説に対して、大久保徹也氏が異見を提起している。首長霊継承儀礼批判については、前方後円墳における封入の徹底化と環境の固定化を図る一回限りの祭祀行為は、霊威の継承・移植というモチーフを復元できないとして広瀬和雄氏に同意しつつも、そのカミ概念に疑義を示し、前方後円墳祭祀が仮にカミの生成だとすると、カミを対象とする祭儀が乏しく、前方後円墳祭祀の兆大さに比して、カミの居処・舞台装置を殆ど見いだせないと指摘する。
 そして、前方後円墳祭祀とは、王の「遺骸」を手段とした集団の再生産のための呪術であり、そこで、王の「遺骸」は最も効果的な呪具であるとする。また、前方後円墳祭祀とは、呪具である「遺骸」の威力を高めるために副葬品を取り付け、長大な棺に収めて竪穴式石室で密封するなど、その遺骸を位相の異なるさまざまな秩序の中に重層的に関連付けて固定化する手順であるとする。そして、そのように前方後円墳祭祀が肥大化するほど祭祀の成功は、祭祀の執行者=主宰者である後継者の威力を表示する機会、正当性表現の場となるのであるとする。
 また、大和政体が自ら供与する器物・技術の絶大な効力を強調し、各地域の政治単位がそれを信奉する構図が、前方後円墳の画一的な展開であるとする。さらに、そのような大和政権の関与に絶大な効力を認める根拠或いは論理は、中国王朝の冊封体制、具体的には卑弥呼が親魏倭王に冊封されたことに求めている。
 筆者は、広瀬説に接したとき、前方後円墳祭祀の内容は祖霊継承というモチーフを復元できないという指摘を一面の真理であると認めつつも、祖霊を継承したからといって王の遺骸が全くの抜け殻にするとは限らず、そのような発想自体が現代の発想であること、また祖霊継承か、カミの生成かというような観念的な説明はどのようにでもできることであり、かつ祖霊をカミに取り換えたところで、社会構造の解明に革新的な視点を提供できているとも見られなかったことから、心に留まらなかった。
 しかし、大久保説の提起によって、前方後円墳祭祀とは何であるか、祖霊継承でないとすれば、どのように解するのが良いのかということが、明確な課題として現出してきた。
 近藤説のように、前方後円墳祭祀を首長霊継承儀礼と見れば、画一的な前方後円墳の広がりは、「擬制的」同族関係を取り結んだ結果であると見るのは必然であるが、逆に前方後円墳が分布する列島規模の全領域にわたって「擬制的」とは言え共通の祖先を持っているというような観念が存在している状態を想定すると、その場合には基本的に一回限りの祭祀しか行われない前方後円墳ではなく、逆説的になるが、「擬制的」であればある程、大規模な祖廟が大和に設けられた筈であり、明らかな矛盾を生じることになる。統一王権による支配権が確立していない状態では、「擬制的」であっても列島規模で同族の観念を持たせることは出来ず、逆にそのような支配確立されていれば、王権を継承するための前方後円墳祭祀などは行う必要がないと考えられる。
 また、広瀬説では、亡き首長がカミとなって共同体を守護するという論理であるが、その論理からは、近藤説の「擬制的」同族関係のような、大和のカミと各地域のカミの関係は出てこず、したがって前方後円墳祭祀を提供する関係だけで大和が支配する「国家」が形成されるということになって、到底納得できるものではなく、先に、大和の首長が各地域の首長による「支配共同体」(そのような「共同体」が存在していたとなぜ言えるのか不明)を支配する「前方後円墳国家」ありきの論理である。
 また、大久保説では、大和の政体が提供する王権継承儀礼としての「遺骸」を用いた呪術を、各地域の政治単位が受け入れ、信奉するに至る理由なり、論理が不十分である。なお、その論理として、中国王朝との冊封関係、具体的には卑弥呼が魏から親魏倭王として冊封されたことにより、大和政体が権威付けられたことに求める見解を提示しているが、かつて「謎の四世紀」と言われていたように、前方後円墳が列島全体に展開した前期古墳時代は中国王朝と没交渉であった時代であり、正鵠を射ているとは思えない。また、「卑弥呼の朝貢と前方後円墳祭祀の創出が時期的に合致することは偶然ではない」というのも時期に差があり、無理があるのではないかと思う。
 筆者は、前方後円墳祭祀自体は、大久保説の呪術的な王権継承儀礼であるという理解に同意している。弥生中期までの弥生農業共同体では、首長が死ぬと共同体成員の推挙により新首長が選ばれ、その新首長が主宰して共同体として葬送儀礼を行ったものと考えられる。一方、弥生後期の墳丘墓祭祀においては、死んだ先王の霊肉未分化な遺骸の埋葬儀礼を新王が主宰することで、死んだ王の権能を封じて新王のコントロール下に置くことで新王が王権を継承し、それと同時に王の遺骸を朱で保守するとともに呪具を用いて辟邪して封ずることで、王の遺骸に悪霊がとりついて悪弊をもたらすのを防ぎ、死んだ王の力で支配領域の安寧を図ると観念されていたと理解している。このような観念は、恐らく前期古墳時代の前方後円墳祭祀においても基本的にはそのまま継承されていたものと考えている。
 そして、このような前方後円墳祭祀がある程度の画一性を持つとともに較差性を持って列島規模で展開した理由は次のように考えることができる。すなわち、歴史的な経緯の中で中核的な王となった大和の王が、中国から導入された思想に基づいて、天帝から列島規模での擬制的・観念的な統治権能を授権されたものとすることで、連携した各地域の王がそれを承認し、それと同時にその統治権能を、それぞれの地域で実効的に統治している各地域の王に分権して授権するとともにそれに伴って王権継承儀礼の舞台装置としての前方後円墳祭祀を提供するという関係が、上位のものから下位のものに向かって順次形成され、そのことによって列島全域にわたって極めて多数の前方後円墳が築造されるに至ったものと理解される。各地域の王にとっては、上位の王の観念的・擬制的な支配下に入ることで、その地域での支配権が授権され、自らの王権が外部に対しても、属する集団においても承認されることになるので、自ら進んで主体的にこの前方後円墳祭祀を採用したのであろう。
 次に、このような前方後円墳儀礼の実際の成立過程について見てゆくことにする。
 狗奴国を中心として結集した列島の諸勢力は、連携の中心を大和の東南部に置くとともに、狗奴国王を彼らを代表する中核王として立てたものと考えられる。ここで、中核王とは、各地の王に対する支配権を有する中期古墳時代の大王に対して、前期古墳時代において王権継承儀礼を提供することで観念的に列島各地域の王に対してその支配権を分与する権能を有する王として規定する。そして、こうして立てられた中核王のもとで、魏が後ろ盾となっている邪馬台国連合との争いに勝利することができたので、この最初の中核王の死に際して、互いに連携した勢力が共同して箸中山古墳を築造したということは間違いないものと考えられる。また、その後も中核王の墓は大和東南部に継続して築造されることになったものであり、それは考古学界で基本的に受け入れられている見解に基づいて、箸中山古墳-西殿塚古墳-行燈山古墳-渋谷向山古墳という系列となるものと考えている。
 まず、最初の前方後円墳の箸中山古墳においては、纒向型前方後円墳と比較して平面視で前方部が発達するとともに、その先端部に向けて大きくせり上がった形態となっている。前方部の先端が撥型に開いているのは、前方部端が所定の幅で大きくせり上がって形状にするために生じたものと考えられる。この前方部先端に向けてのせり上がりは、当然のことながらそれなりの必要性があって形成されたのであろう。筆者は、魏朝に後押しされた邪馬台国連合に対する戦いにおいて勝利をもたらした王の死に当たって、連携した各地域の王が纒向型前方後円墳を飛躍させた巨大な墳墓を築いて盛大に葬るとともに、晋朝の脅威が継続して存在すると考えてこれと対抗する必要から、後継の中核王を一致して推挙し、推挙された新王が葬送儀礼を取り仕切った後、連携した各地域の王を両側に従えて高く聳え立つ前方部端に登場し、中核王として何らかの受諾儀礼を行うことにより、王権を継承したことが広く承認されたものと考えている。最初期の箸中山古墳タイプの前方後円墳は、このような先王の葬送と新王就任の儀礼の舞台装置を提供したものである。
 なお、箸中山古墳の後円部の段築に関しては、五段築成とする考え方があるが、後述の如く、基底段部と三段築成の墳丘から成り、その後に墳頂面上に円丘が形成されたものと考えている。
 次の王墓と考えられる西殿塚古墳は、後円部が基底段部を除くと三段築成でその上に方形壇が形成され、前方部も三段築成でその上に方形壇が形成されている。また、1988年の宮内庁の報告によると、前方部の段築は後円部にうまくつながっていかず、前方部からずっと歩いてそのまま後円部の同じ段築面に行くのではなく、その間には、少し段があって同一の平坦な段築を造っていない、ということである。
 箸中山古墳に対するこの墳形の相違を、前方後円墳祭祀に関連させてどのように理解するのかについて、従来適切な見解は提示されていない。筆者は、思い切って次のような仮説を提起する。
 箸中山古墳での儀礼により就任した二代目の中核王は、晋の脅威が薄れるのに対応して一層強く要請されるに至った中核王としての権能の確立を図るため、王者(皇帝)にのみ許された特権的な祭祀である郊祀を執り行うこととし、そのため箸中山古墳の後円部の墳頂面に円丘壇を構築し、西殿塚古墳の前方部に相当する位置に方丘壇を構築したものと解釈する。
 郊祀とは、金子修一氏の研究を参考にして説明すると、天は国都の南の郊外で祭り、地は北の郊外で祭るのが礼とされていたことからそのように呼ばれたもので、南郊壇は円形の円丘、北郊壇は正方形の方丘とされ、その祭祀内容は時代で変化するが、典型例としては、南郊の円丘に皇皇天帝を祭り、北郊の方丘に崑崙地祇を祭る。また、郊祀は後漢末になって俄かに政治的色彩を帯びるようになり、以降各王朝でも初代の皇帝は告代祭天(王朝の設立を告げる礼)を行っており、公孫度も初平元年(190年)に天地を郊祀し(『三国志』魏書巻八 公孫伝)、自立の意を示している。三国時代以降の各王朝の初代の皇帝(受命の君)が即位した時の告代祭天の祝文(祭祀対象に対して読み上げる頌辞)は、「皇帝臣某(某=皇帝名、例えば蜀の場合は劉備の備)、敢えて玄牡を用い皇天上帝・后土神祇に昭告す」で始まるのが通例であり、天帝に対して臣下として統治を行うことを告げるのである。
 ここで、箸中山古墳の最上段の円丘を南郊壇、西殿塚古墳の前方部の方形壇を北郊壇と見なす理由について説明する。箸中山古墳と西殿塚古墳は、広義のオオヤマト古墳群の南端と北端にそれぞれ位置することから南郊と北郊にそれぞれ見なすことができる。また、箸中山古墳はその時点では墓であり、現代の感覚から言えば祭祀の場所としては適切でないと見られるが、証明はできないが、遺骸を封じた後は後円部を亡き王の霊威のある神聖な墳丘と観念されていたと考えることは可能で、中国思想からはズレが生じるが、その墳頂面に円丘壇を構築することで、今は亡き初代の中核王が天帝から王権を受命したものと観念されたと考えることができる。また、箸中山古墳の後円部の形状を見ると、円丘壇とそれより下方の三段築成の部分とは明らかに様相が異なっていることから、築造当初からそうであったか否かではないが、少なくとも郊祀の前の時点で三成とされ、その墳頂面に別に円丘壇が形成されたと見るのが妥当であると思われる。また、郊祀における円丘壇と方丘壇がどのようなものであったかは不明なことが多いが、前漢時代に円丘壇が径5丈、高さ9尺という記載が見え、さらにかなり後の時代であるが、梁時代に、円壇が高さ2丈7尺(6.48m)、上径11丈(26.4m)、下径18丈(43.2m)の二成で、方壇が高さ1丈(2.4m)、上方10丈(24m)、下方12丈(28.8m)であるという記録(『隋書』六巻 礼儀志)が見え、これに対して箸中山古墳の円丘壇が高さ4.5m、上径27m、下径45mであり、西殿塚古墳の前方部の方形壇が高さ2.2m、一辺22mであることと良く対応しており、単なる偶然というよりもやはり何らかの関連性を認めることができると思う。なお、北郊壇については、後述の如く、西殿塚古墳が築造される以前に、その前方部の位置に単独で、箸中山古墳の後円部に対応させて三段築成の方丘を築いた後、その頂面上に上記のような方形壇を築造して郊祀を行ったと理解している。因みに、箸中山古墳の後円部墳頂点面の円丘壇周囲から芝山(大坂山?)産の板石と宮山型特殊器台が出土しており、西殿塚古墳の前方部の方形壇から同様の板石が出土するとともに、天理市の発掘調査で前方部の周囲から宮山型特殊器台が出土しており、両者が共に同様に構築されて同様の祭祀が行われたことが想定される。
 筆者はこの郊祀説に自信を持っているので、敢えて挑発的なことを言うと、この郊祀説を受け入れるのであれば、初期大和王権を邪馬台国と関連付けて理解することは止める必要がある。邪馬台国が魏や晋と冊封関係や朝貢関係にあれば、郊祀を行うことは許されることではないからである。一方、郊祀説を受け入れないのであれば、箸中山古墳の円丘と西殿塚古墳の方形壇を前方後円墳祭祀の形成に関連付けて別の適切な説明がなされるべきである。
 なお、前方後円墳における三段築成について、中国思想の影響を認める考え方は、都出比呂志氏が述べている。具体的には、帝王陵で三段築成のものがあること、郊祀制の円丘で三成のものが多いこと、崑崙山が三成であるとする思想があることなどを挙げられているが、三つの可能性を提示するに留めている。筆者としては、箸中山古墳のが後円部などが三段築成であるのは、帝王陵や郊祀制とは関係なく、崑崙山が三成であるという思想に基づいていると思う。また、前方後円墳の墳丘形態を円丘と方丘の結合と捉えて郊祀制と関係付ける見方が提起されたこともあったが、金子修一氏の論考によって明確に否定されてすでに取り下げられている。
 このようにして、第二代目の中核王が初代の中核王を代理してその郊祀を行ったことで、中核王の統治権能が確立したが、その後さらに第二代目の中核王は、郊祀を行った北郊壇をそのまま前方部として取り込んで西殿塚古墳を築造し、その後円部の墳頂部に統治権能を持った初代王の霊を改めて擬制的に封じた後、その後円部上に方形壇を構築して新たに創出した何らかの王権継承儀礼を行い、王権を改めて継承したものと見ることが可能であり、このようにして初期大和王権の基礎が固められたものと了解される。
 その後、第二代目の中核王が死んだときに第三代目の中核王が行燈山古墳を築造して王権を継承し、第三代目の中核王が死んだときに第四代目の中核王が渋谷向山古墳を築造して王権を継承したものと考えられる。
 以上のように、前方後円墳祭祀が成立し、広域に展開・分布したのは、中国王朝による権威付けが無くなった状況に対応して、大和の統合勢力が、統治権限として、天帝からの授権という中国思想を取り入れ、さらに天帝から授権した王権を各地の王に分権するというシステムが成立したことによると考えるのが、最も合理的な説明であると考えられる。分権は、実効支配していない領域に対してなされ、分権された側が元来実効支配していたもので、分権とはその統治権能の根拠を付与するだけのものである。分権の実体は、各地域におけるそれぞれの王権についての共同幻想を担保する権威と儀礼のノウハウを提供し、それに応じて労役等の提供を行う関係と考えられる。また、この労役の提供とそれによって築かれた巨大な築造物が権威の共同幻想を高めるという機能を果たすというものであったと思われる。
 初期大和王権は、以上のような分権システムによって成立した小国家の連携体の中核として、前方後円墳祭祀とそれに用いる三角縁神獣鏡等の呪具を創成して提供したのであり、前方後円墳の分布は、それらの国家群の集積を示すもので、それ自体が国家の領域を示すものではない。
 このような前期古墳の体制は長くは続かず、次の二次国家へと変質することになる。前期古墳の布留式土器の時代でも後半の布留Ⅱ式の時代になると、畿内では前期古墳の全盛期であるが、北部九州では、早くも中期古墳時代の特質である韓式土器の流入が始まり、新たな韓式土器をベースにした土器様式が形成される。また、それに対応して大和では、大型の前方後円墳の築造地域が東南部のオオヤマト古墳群から北部の佐紀盾列古墳群に移動し、前期古墳が変質する。また、日本海沿岸へのルートの出口である丹後にも大型古墳が築造される。
 このような前期古墳の変質は、北部九州に朝鮮半島東南部において大成洞古墳群を築造した勢力が九州に進出し、河内王朝の第一次拠点を北部九州の豊前の京都郡に置いたことに対して、前期古墳の盟主達が軍事的に対応せざるを得なくなったことによるものであると筆者は理解していする。

Ⅵ おわりに
 以上、後漢の朝鮮半島に対する支配力が光武帝以後急激に低下し、交流が衰退した情勢の中で、弥生農業共同体を基礎とする弥生中期社会が崩壊し、共同体を超えて王が統治する弥生後期社会の一次国家が登場し、次いで庄内期においては、後漢末から三国時代にかけての魏と呉や公孫氏の登場とそれらの争いの影響下で、各地の王の連携が進められ、前期古墳時代の布留期には、魏・晋朝との反目・絶縁状態の中で、観念的な関係とは言え列島規模で統一的な王権とその分権システムが構築されてきた過程を説明できたと思う。
 また、その前期古墳時代において、各地域にそれぞれ多くのほぼ同一形態の前方後円墳が築造されたということについては、厳然とした身分制や、絶対的な命令をする者とそれを受ける者という、支配・被支配の関係があったことを示すのではなく、それぞれ現実的に支配している王に対して、前方後円墳儀礼システムを提供し、その王に観念的な支配権能を付与するという、分権システムの存在を示唆しているという見解を提示した。
 また、前期古墳の持つ機能が王の支配権能の根拠・権原を与えるものであるのに対して、中期古墳の時代にあっては、各地の王の権力の淵源は、武力を背景にした征服王権的な権力を列島規模で保持している大王から授権することであり、中期古墳の巨大性の持つ機能は既に前期古墳の本質から逸脱して権力の大きさを見せつけるものとなり、王権継承儀礼とは関係のない異質な葬送儀礼の場となっている。従って、前期古墳も中期古墳も墳墓の形態が前方後円墳であるということから、同一の前方後円墳の時代として時期区分の基準にすることは、本質的な時期区分ではなく、不適切であると言える。
 従って、前方後円墳の成立は、大王が列島全体を一元統治する統一王権の成立を意味するという前提と同様に、前方後円墳が築造された期間の全期間にわたって前方後円墳は同一の機能を持ち、程度の差はあれ同一の統治機能を有していたという前提も適切でない。
 かくして、古墳時代について、古墳形態の画一性と大和を中心とする較差性の二点をもって、支配的な統一王権の成立と見るのはいかに適切でないか、ましてや、それを「記紀」の記載と結び付けて、天皇制自体やその前身形態の成立と認める考え方が、いかに間違っているかを示し得たのではないかと思う。