纒向の王と兵主神

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   纒向の王と兵主神

-----この文章は、『古代史の海』第59号(2010年3月)に掲載した同題名の文章の内容を再録したものです。-----

 平成21年11月14・15日に纒向遺跡第166次調査の現地説明会が開かれた。同説明会資料によると、今回発掘された建物C、Dは、これまで発掘されていた建物A、Bとともに西から東に向けてA~Dと、軸線を東西方向に一直線状に揃えた建物群を構成していることが判明した。その中でも、今回発掘された建物Dは、南北が4間(柱間4.8mで、中間に束柱を設置)、長さ19.2mで、東西が4間(実際に柱穴が確認されているのは2間のみで、残り2間は想定されたもの)、長さ12.4m(確定長6.2m)の高床式掘立柱建物であり、3世紀中ごろまでの建物遺構では国内最大の建物遺構であるとされている。そのため、邪馬台国の卑弥呼の居館が発掘されたということまで言及する向きが多い。
 ところで、建物群の軸線は、正しい東西方向に対して、西から東に向かって北側に傾いており、資料中では「推定される建物群の軸線は東西方向に通るもので、方位は建物・柱列(柵)などすべての構造物が真北に対して約5度西に振れた方位に揃えられています。」と記載されている。しかし、このように軸線が5度傾いている理由については特に説明されることなく、「・・・・一連の遺構は明確な設計図に基づいて、強い規格性を持って構築されたものと判断されます。」と纏めている。
 しかるに、東西方向に対して5度の傾きのある建物群の軸線に沿って東を見てみたところ、小さいけれども三角形の秀麗な山の頂上が見えた。このことから、建物群の軸線はこの山の頂上を指向している可能性が考えられた。そこで、この山を調べたところ、標高409.3mの穴師山で、その頂上部に嘗て兵主神社の上社が祀られていた夕月岳(夕月嶽、斎槻岳に同じ)であると判断して良いことが判明した。
 すなわち、兵主神社の上社が祀られていた夕月岳とはどの山であるかについて、巻向山説と竜王山説とが存在していたが、小川光三氏が『大和の原像』(大和書房、1973年)で、箸墓古墳の中軸線と行燈山古墳の中軸線が穴師山の頂上で交わることを発見し、さらに実際にこの穴師山に登って山頂から少し下がったところに地元で「ゲシのオオダイラ」と呼ばれている40m四方ほどの平坦部があって、そこに小さな祠があり、かつその平坦部から山頂に向かう急な斜面は葺石状に石が散布されている状態でかつ平坦部から30mほど登った位置に高さ1mほどの磐座が組み上げられていることを確認している。また、大倭注進状裏書にある社伝によれば、上社の穴師坐兵主神社は夕月岳にあったが、応仁の乱に兵火にあって消失したので、現在の社殿に遷し祀ったということである。小川光三氏は、以上のことから穴師山こそが夕月岳であるという説を提起したのである。
 また、地図上で確認したところ今回の発掘調査によって明らかになった建物群の軸線を西に向けて延長すると、石塚古墳の後円部の中心も通っていることが分かった。
 かくして、石塚古墳の後円部の中心から建物群の軸線を通るラインが夕月岳の頂上を指向し、かつその夕月岳の頂上に箸墓古墳に中軸線が指向し、さらに行燈山古墳の中軸線も夕月岳の頂上を指向していることが確認される。
 ところで、現在の三社から成る大兵主神社の内、中央の神社が夕月岳山頂部の上社から遷された穴師坐兵主神社であり、現在の社地である下社に祀られていたのは左側の穴師大兵主神社である。大倭注進状裏書によると、「両社(上社と下社)共に神体は矛、故に兵主神と言う。」ということであり、名称から言っても本来は祭神は兵主神であったことは明らかである。
 兵主神は、『漢書』「郊祀志」によれば、山東の斉において、仔細は定かでないが、太公望呂尚の時からつくられたとする説がある斉の八神(天主、地主、兵主、陰主、陽主、月主、日主、四時主)の一つである。『史記』「封禅書」では蚩尤(しゆう)が兵主神に相当するとされ、『漢書』「郊祀志」では兵主として蚩尤を祭るとされている。蚩尤とは、獣身で銅の頭に鉄の額を持つとか、四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つとか、頭に角があるなどといわれ、また砂や石や鉄を食らい、超能力を持ち、性格は勇敢で忍耐強いといわれ、天界の帝王である黄帝の座を奪う野望を持って戦ったが敗れたという神話を持つ山東方面の神であり、鍛冶や製鉄の神で、戦いの神であるとされている。また、漢の高祖(劉邦)が、BC206年に故郷の豊県の扮楡の社で祈願してから肺を平定して肺公となると、蚩尤を祀って犠牲を殺し、鼓や旗に血を塗り(赤旗=蚩尤旗の起源)、その十月に漢王の位に就き、翌年のBC205年には項羽を撃ち、BC202年に天下を統一すると、祝官に蚩尤の祠を長安に建てさせている。このことから、蚩尤=兵主神は漢の高祖が天下統一に当たって祀った戦いの神であったことが分かる。
 今回の発掘調査で確認された建物群が石塚古墳の後円部中心と穴師山の山頂部とを結ぶライン上に軸線を揃えていることと、その山頂部に兵主神が祀られていたとする文献資料と、小川光三氏が発見した箸墓古墳と行燈山古墳の中軸線が穴師山の山頂部で交わるとともに祭祀遺構と思われる遺構が存在することから、山頂部に嘗て兵主神が祀られていたという夕月岳とは穴師山であることがほぼ100%の確率で確定したと言える。また、3世紀の半ばに纒向の王が建物群から夕月岳山頂部の兵主神を祀っていたと考えることができることから、兵主神社は考古学的にその始原を3世紀半ばまで遡らせることができる日本で最古の神社、若しくは少なくとも最古級の神社であることが証明されたものと言える。
 次に、山東半島の神であり、漢の高祖が戦いに当たって祀って天下統一を果たした神である兵主神がなぜ3世紀に纒向の穴師山に祀られるに至ったかについて考えてみる。結論的には公孫氏の残党がもたらしたものと考えられる。すなわち、後漢末から三国時代にかけて公孫氏は、黄巾の乱を契機にして遼東郡、玄菟郡、楽浪郡を率いて自立し、山東半島北岸を占領しており、その後楽浪郡の南に帯方郡を設けて韓・倭との交渉を管轄していた。そして、238年に公孫氏は魏に滅ぼされることになったが、その際に公孫氏の残存勢力が魏の追討を逃れて以前の交流関係から韓を経て倭に渡来し、纒向の勢力に帰属した可能性が十分に考えられる。公孫氏の帯方郡と韓や倭との交流は略50年にもわたり、高い親密度の交流が存在したことが伺われる。現に魏の支配下の帯方郡に対して韓が反乱を起こし、その太守が殺されるというような事態が発生している。一方、公孫氏山東半島の北岸を占領しているので、公孫氏の残存勢力も、兵主神の存在及び漢の高祖が戦いに当たってそれを祀って天下統一を果たしたことを十分に承知していたものと考えられる。従って、纒向の王が穴師山に兵主神を祀っていたとすれば、魏の追討を逃れた公孫氏の残存勢力が纒向の勢力に帰属し、その公孫氏の残党がもたらした戦いの神である兵主神を纒向の王が戦いに当たって祀ったものと考えるのが最も妥当な見方であろう。
 このように考えると、公孫氏の残存勢力が帰属した纒向の勢力が戦った相手は、「魏志倭人伝」の記載によれば魏をバックにした邪馬台国連合と考えるのが至当であり、その場合纒向の勢力とは狗奴国ということになる。すなわち、魏の後押しを受けた筑後川流域を中心とする北部九州の邪馬台国連合と、公孫
力が連合した狗奴国連合とが戦った結果、魏の使者である張政に卑弥呼が檄を受けて死に、次に立った台与が晋に朝貢しても相手にされなかったと読み取ることができる「魏志倭人伝」の記載からして、狗奴国連合が邪馬台国連合に勝利したものと考えられる。このことは津古生掛古墳や吉野ケ里遺跡に東海系の前方後方墳が築造されたことに認められる。その後、狗奴国連合に山陰・北陸・近江も連合して初期ヤマト王権が成立したものと考えることができ、かつこの初期ヤマト王権は当然のことながら中国の魏・晋朝と疎遠であり、その結果「倭の五王」まで中国史書に現れず、謎の四世紀と言われる所以となったものと考えられる。
 そして、邪馬台国連合との戦いに勝利した纒向の王が死んだときに、勝利をもたらしたと観念された兵主神が祀られている夕月岳に中軸線を向けてその墓、即ち箸墓古墳が築かれたのであり、西殿塚古墳を保留にして次の王の墓である行燈山古墳(崇神天皇陵古墳)も夕月岳に中軸線を向けて築造されたものと考えられる。