「漢委奴国王」の読み方

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 「漢委奴国王」の読み方

 --この文章は『古代史の海』第38号(2004年12月)に掲載の「「漢委奴国王」金印の読み方について」の内容を一部補正して転載したものです。--

 天明4年(1784年)に福岡市の志賀島で発見された金印は、一時偽印説が提起されたこともあったが、AD57年に後漢に朝貢して光武帝から賜ったと『後漢書』に記録されている印綬にほぼ間違いないものと見なされている。この金印の印面には「漢委奴国王」と薬研彫りで陰刻されているが、その「漢委奴国王」の読み方について数多くの見解が提起されている。各見解については、大谷光男著の『研究史 金印』(吉川弘文館 1974年)に詳しく説明されている。
 この『研究史 金印』に基づいて主な見解とその経緯を説明すると、三宅米吉が「漢委奴国王印考」(『史学雑誌』第3巻、第37号、明治25年12月)において、「委(倭)」は「わ(ヰ)」であって、「伊都」の「い」ではなく、「奴」は「ぬ、の、な」であっても、「ど」ではなく、「委奴国」は「倭(わ)の奴(な)の国」と読むべきで、「日本書紀」の「儺県」であるという説が提起された。それ以来、吉田東伍、久米邦武、白鳥倉吉、中山平次郎、喜田貞吉、那珂通世、末松保和、榎一男、藤間生大、三品彰英、和歌森太郎、原田大六、石母田正、上田正昭、井上光貞、直木孝次郎、斎藤忠、岡崎敬などの錚々たるメンバーに支持されて現在の通説となっている。そのためか、前原市立歴史資料館発行の『伊都』においても、伊都国と金印は直接関係ないかのように、「漢委奴国王」印についてはまったく触れられていない。
 一方、天明4年には、藤貞幹や上田秋成によって「委奴国」は「いと(伊都)国」と読まれている。また、上記三宅米吉による論考の後の明治37年には、高橋龍夫が「イド国」という読みを提示している。また、内藤文二は「漢委奴国王印に就て」(『歴史公論』第5輯、第2号、昭和11年2月)において、「漢」は漢音・呉音ともに「カン」、「委」は漢音・呉音ともに「ヰ」であるが、「奴」は漢音では「ド」、呉音では「ヌ」であり、当然漢音で読むべきであるから、「カンのヰド国」と読むべきであるとされており、石原英明も「『魏志倭人伝』の国語表記-二、三の原則的考察-」(『名古屋大学国語国文学』26、昭和45年7月)において、同趣旨のことを述べている。このように「イト」又は「イド」と読む説の支持者としては、竹内理三、三木太郎がいる。また、岡田英弘は、『倭国』(中公新書、1977年、P48)において、「漢(かん)委(い)奴(ど)国王」とルビをふり、「いど国」説をとっている。
 また、別の視点から、市村賛次郎が「支那の文献に見えたる日本及び日本人」(『歴史学研究』第109号、昭和18年4月)において、「漢から異民族に贈った印では、「漢何々王印」とはあるが、「漢の委の奴の国」という三段に書いたところの印は無い」ということを指摘して、「漢の委の奴の国」と読む説に対して否定的な見解を提起している。
 しかし、この点については、岡崎敬が「『漢委奴国王』金印の測定」(『史淵』第100輯、昭和43年3月)において、大谷大学所蔵の「漢匈奴悪適尸逐王」印の存在を指摘し、ここで悪適は部族名、尸逐はその酋長の称号で、部族酋長の一人に漢廷より贈ったものであり、「漢の匈奴の悪適尸逐王」と読めるので、「漢委奴国王」についても「漢の委の奴国王」と読むべきであると主張され、それによって「漢の委の奴の国王」という読みが通説となっている。
 しかし、これについては、例えば、漢代でなく後の晋時代であるが、「晋烏丸帰義侯」駝鈕金印があり、その「帰義侯」に対応するものとして、自称に基づいて「悪適尸逐王」を「漢匈奴」の下につけた可能性を考えることができ、「漢+何々国王」印とは必ずしも同列に論じ得るものではないと思われる。因みに、『後漢書』百官志には、「四夷は、国王、率衆王、帰義侯、邑君、邑長あり。」という記載があり、国王より下位の地位については上に民族名を記して特定する場合があったと考えることができても、「国王」と認定したものに対してその上に民族名を記すというのは馴染まないように思う。
 また、中国語の音韻論から、「奴」の発音は、「ナ」から「ノ」を経て「ヌ」に変化しており、後漢期には「奴」の音は「ナ」である可能性が高いという説も提起されている。しかし、藤堂明保の『学研 漢和大字典』において、「奴」は、呉音が「ヌ」、漢音が「ド」と記され、音韻変化については、上古音(周・秦)nag-中古音(隋・唐)no(ndo)-『中原音韻』(元)nu-北京語nu、北京式ローマ字による現代音(nu)と記され、筆者の勘違いでなければ、漢音では「ndo」、すなわち「ド」であることは明らかであるように思われる。
 以上の資料から見た場合、筆者は通説の「倭(ワ)の奴(ナ)の国王」と解するよりも「委奴(イト)国王」と解する方が自然であるように思う。しかし、客観的には「倭の奴の国王」という解釈を完全に否定することはできない状態である。
 そこで、次に考古学的な視点から、楽浪郡との交流関係の深さを如実に示すと考えられる楽浪系土器の流入状況を見てみる。武末純一が、「弥生時代の朝鮮半島系土器」(橿原考古学研究所付属博物館特別展図録 第43冊 『倭人の世界』、1994年)において、「前原市三雲番上遺跡は・・・伊都国の中枢部にあり、調査面積が狭い中で一つの土器溜からまとまって出たことからすれば、楽浪郡から渡来した漢人が居た可能性も考えておきたい。」と記されているように、考古学分野では早くから楽浪郡との交流主体が伊都国であることは認識されていた筈である。しかし、「漢委奴国王」印の解釈とは全く切り離してばらばらに理解されていたようである。
 ところで、寺井誠は、「古墳出現前後の韓半島系土器」(『3・4世紀 日韓土器の諸問題』、釜山考古学研究会、庄内式土器研究会、古代学研究会、2001年7月)において、弥生中期末、後期前半、後期後半、庄内、布留古の5時期に大別して79遺跡における楽浪系土器と三韓系土器の出土例を集成されている。
 そのデータに基づいて、糸島、早良、福岡平野などの各地域毎の楽浪系土器と三韓系土器の出土数をカウントした結果、中期末には、糸島のみ多量の楽浪系土器が出土し、奴国とされている福岡平野には早良を含めても楽浪系土器の出土が認められない。また、糸島においても中期末は楽浪系土器の流入は多いが、後期前葉になると著しく少なくなり、また大型甕棺墓制が突如として衰退してしまい、かつそれに代わるような厚葬墓が見られないことに鑑みると、後期前葉には楽浪郡との交流が激減していることが分かる。また、早良を含めた福岡平野には後期前半においても楽浪系土器の出土は認められない。
 なお、その後の後期後葉になると、糸島の井原鑓溝遺跡で多量の楽浪系土器が出土し、福岡平野でも僅かに出土している。また、福岡平野では後期後葉に多量の三韓系土器が出土し、庄内期は一旦減少した後、布留古には再び増加し、特に早良の西新町遺跡(後の「儺県」に繋がって行くものと考えられる)で圧倒的に大量の三韓系土器が土器が出土している。
 かくして、考古学的には、楽浪郡との交流は、奴国ではなく、伊都国が行っていたことは間違いのないことであり、「漢委奴国王」の金印を受領したのは伊都国王以外に考えようがなく、したがってその読みは考古学的には「漢の伊都国王」であると結論付けるしかないと思われる。